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丸い画面に、遠くから目を凝らして。-街頭テレビのあった街かど

 昭和28(1953)年、庶民の娯楽といえばラジオ一択だった時代に、大転換がおこりました。「白黒テレビ」の放送開始です。
 はじめて登場した国産テレビはシャープ製、14型で17万円ほど。当時の高卒公務員の平均初任給が約5,400円だったということから現在の物価に単純計算すると、およそ28倍、476万円!到底、庶民には手が出せない超高級家電でした。
 そこで、テレビ普及のために登場したのが各地の「街頭テレビ」でした。

 宮崎木材さんが銭湯をはじめて、その横の工藤さんというのが、パン屋さんだったんです。で、ここのパン屋さんが最初にテレビを店頭に据えて。プロレスとかがあったらみんなで集まって見てた気がする、お風呂に行ったときとかに。それは記憶があります、お風呂に行くときにテレビ。木材の半端が出て、それを燃やして銭湯をする。家にお風呂あるのは少なかったから。だから、プロレスなんか、パン屋さんのところで見てたよね。

 「宮崎木材」は、今の新居浜市・登り道サンロードの1つ東の筋、現在の「若水館」敷地の南端辺りにありました。その「宮崎木材」西隣に「宝温泉」、そのさらに西隣、商店街に面したところに「黒ねこパン」というパン屋があり、街頭テレビはそのパン屋の店頭に設置されていたと記憶されています。
 当時の人気番組は、テレビ放送開始のごく初期から放送されていた大相撲(昭和28年5月テレビ放送開始)、プロ野球(同年8月)、そして‘日本プロレス界の父’力道山が爆発的な人気を博していたプロレス(昭和29年2月テレビ放送開始)でした。

 力道山とかの時代は、すごく前の話よね。元塚のところに電気屋があって。どこだったかなあ。なんて名前か。お肉屋さんの横。元塚のね、絶対あったはずよ。「アメリカ楽器店」のちょっと東。池田電気。そうそう。ここにテレビがあったの。大きいテレビが。まあ、もう黒山のひとだかり。力道山とか見たよ。池田電気じゃ。テレビがね、けっこう大きかったんよね、池田電気のは。

 現在の昭和通り「丸二ふとん店」のある若水町交差点から東に進むと、いまも店舗外観の残る「池田電気商会」。新居浜いちの目抜き通りに面した店舗に、‘大きな’街頭テレビ。黒山の人だかりにも納得です。

 大師町にあったねえ。相撲なんか、金払って見に行きよったよ。レスリングとかね。甲子園野球なんかすごかったよ。画面なんかこんな小さいのに。ほんとに、栃錦と若乃花の千秋楽なんか、相当熱が入ったよ。こんな画面小さいのに。画面も丸っこいの。白黒で。そのうちに、大判焼きみたいな「テレビまんじゅう」いうて、そこが売り出しての。テレビまんじゅう買ったらテレビが見れたの。見るもの聞くものが、ぜんぶ新鮮だったよね。

 これは新居浜市のお隣・西条市の思い出。大師町は、今の西条市役所から東に数ブロックのところにある地区で、古くからの商店街や西条藩陣屋跡(西条高校)にも近く、当時はビリヤード場や酒店、自転車店など多くの店舗が並び、人通りが多かったことが推察されます。
 そんな往来に設置された街頭テレビ。昭和26(1951)年の初顔合わせ以来、1950年代の大相撲を‘栃若時代’として牽引した第44代横綱・栃錦と第45代横綱・若乃花(初代)の取り組みは毎回大熱戦で、小さなテレビに人々が殺到しました。「テレビまんじゅう」を売り出すという商機を見出すのも、商人の町・西条ならではでしょうか。
 
 その後、昭和34(1959)年の‘ミッチーブーム’を機に爆発的に普及し、昭和40(1965)年に普及率90%を超えることとなる白黒テレビ。その頃にはカラーテレビ放送も始まり、こちらも昭和50(1975)年ごろには普及率90%超えを達成。いまの私たちにとっては当たり前の日常になっているテレビはこのように、当時の人々を「テレビを外で見る。お金を払って見る。」という行動に駆り立てるほど‘新鮮’な体験なのでした。

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