光る君へ二次創作:賢弟と愚兄と
権力者は、孤独だ。
父の藤原兼家から摂政の地位を引き継いだ藤原道隆は、自分に突きつけられた烏帽子を前に、ため息をついた。
権力者の不興を察しつつも、青年貴族は怯むことなく主張する。
「盗みを働いたのですから、無辜の者とは申しません。ですが、五刑の並びを
乱すことは、この国の基を危うくします。どうか、主上の恩徳をもって、検非違使庁に改革のお許しを!」
まっすぐな烏帽子と、まっすぐな声。
まるで道隆を弾劾するかのよう。
「目の前の問題にとらわれすぎだ、道長。おまえも正三位に昇叙した身なのだ。
広い視野をもて」
道隆が叱ると、唇を引き結んだ青年貴族が顔をあげる。
名を藤原道長。数えで二十五才。位階を思えば若すぎるという批判もある。
兄の道隆はそう思わない。道隆本人もむろん若いが、そのことがなくとも、
確たる根拠があった。
位階とは血筋を彩る飾りという考えだ。高貴な血筋の者には、若くして高い
地位が与えられて然るべきなのだ。
「ですが、摂政さま。今の処罰は、あまりに検非違使の恣意に偏っております。このままでは民の不審をまねき律に従う者がいなくなってしまいます」
「罪を犯すものは、どうあっても犯す。ほとんどの民は読み書きできぬのだからな。律の定めなど、わかりようがあるまい」
「なればこそ令を知る我らがいます。我らが学び、民を導くことで、この国をよくすることができます。我らには天より与えられた役目があるのです」
道長の覇気に満ちた表情に、道隆は若き頃の父をみる思いだった。
検非違使庁の改革。想像するだに困難な仕事だ。
現場で追捕する下人は、罪を赦された放免だ。自分を救う賄賂と、仲間を罠にはめる密告は、下人にとって日常のこと。
道長は、そんな彼らを良き道へと導くという。
──いや、道長なら、やり遂げるやもしれぬ。
三男である道長は、同じく三男だった父の兼家とよく似ている。周囲をよく
観察し、心の機微に聡く、正しいと思えば何度も上奏する胆力を備えている。
選んだ道に、困難が壁として立ちふさがっていたとする。
父の兼家なら、新たな道を探り、迂回するだろう。
次男の道兼なら、かんしゃくを起こして体当たりし、壊そうとするだろう。
三男の道長なら──
「摂政さまの手は煩わせませぬ。私が、やります。何かあれば責めは私が
受けます。亡き父上が申されたように、兄上はどうか、藤氏長者として、
私をいかようにもお使いください」
道長なら、壁を乗り越え、道を先に進もうとするだろう。
「悲しいことをいうな。即位の折の機転には感謝している。おまえには、
これからも帝のため、一族のため、尽くしてもらわねばならぬ。このような
些事で、おまえを失うことはできぬ。わかってくれ」
「これは些事ではございません。困難ではありますが、今ならまだ、打つ手は
残されております」
「どのような手があるというのだ」
「私を、地方に下向させてください」
「国司になりたいというのか? お前が?」
「いえ、大将軍を賜りたく」
思いもよらぬ言葉に、道隆は驚く。
「大将軍‥‥令外官ではないか」
「だからこそ、検非違使庁改革に柔軟に対応できます」
大将軍は養老律令で定められた、軍の指揮官の官職である。東北に向かう
蝦夷征討であれば、征夷大将軍となる。
「検非違使庁改革は、言葉だけ変えても良くはなりません。この問題の根幹に
あるのは、検非違使個人ではなく、地方の治安が不安定なことです。まずは私が兵を率いて地方を巡回し、群盗を懲らしめ、治安を回復させてまわります」
「何年もかかるぞ」
「だからこそ、今なのです」
「?」
「摂政さまが、帝のおそばにおられて都を然と守られている間であればこそ、私がその威徳をお借りし、地方の実情を丹念に調べ、必要な手を打てます」
「これまでどおり、国司に任せればよいのではないか」
「その結果が、今の国の乱れです。お願いです。どうか、苦しむ民に主上の
恩顧をお与えください」
道長は床に額をこすりつけるようにして、苦悩の表情を隠した。
──直秀。
烏の鳴き声と、鳥辺野に晒された死体を思い出す。
あの後、道長は家臣に調べさせ、自身も国司経験者に聞き込みを行い、地方の実情に迫った。
聞けば聞くほど、地方は混沌としていた。
国司には朝廷から、絶大な権限が与えられている。だが、直接の家臣を連れずに赴任する国司に与えられるのは、“名”のみ。何代もその土地に住む郡司が
“実”を握る。国司は、地元有力者の協力を得られなければ、何もできない。
直秀は、その郡司の出身で、妾の子であったが、居場所を失い地方を出て、散楽一座に加わったのだという。
直秀の事例をみるまでもなく、家督争いに水争い、災害や疫病も頻発する。郡司による統治は常に不安定だ。国司は揺れる地方に竿さして介入し、見返りに郡司の協力を求め、なんとか地方を治めている。
──優れた国司であれば、善政を敷いて領民を慰撫できよう。
だが、道長のみたところ、国司の善政は少数派だ。国司のせいばかりではない。その時は協力していても、支配の正当性を揺さぶられた郡司側がよい思いを抱くはずがない。今の国司へ抱いた不満を、次の国司で仕返しすることもある。
特に尾張国では、国司と郡司の対立が深く、先だっても、尾張国司であった藤原元命が国司苛政愁訴を受けて罷免されている。
道長は、地方の実情を調べる中で尾張国郡司百姓等解文の写しを手に入れた。重税。横領。賄賂。国司による悪政の数々が対句を利用した漢文で並べてある。そこに、まだ存命だった父の兼家が通りかかり、独り言のようにつぶやいた。
──それか。そこまでやれとは、いわなかったのだがな。
道長は、父の苦いつぶやきを、国司に向けたものと思ったが、違っていた。
──解文を書く許可はわしが出した。まだ先帝がおわした時でな。花山院の政に徳が足りぬことを朝野に知らしめる証拠がいくらでも必要だった。
では、ここに書かれたことはでっち上げなのかと道長が聞くと、父は針小棒大であっても事実のはずだと答えた。
兼家は、実際に文を書いた者の名は口にしなかったが、尾張熱田神宮の大宮司関係者で、藤原南家に近い文人であったようだ。
元命は、国司任官時は花山天皇の派閥だった。尾張の郡司は大はしゃぎで悪政につながる証拠を集め、熱田神宮に作文を依頼された文人も、馬に鞭打つ名調子で三十一箇条の解文を書き上げたのだ。
証拠集めに時間がかかり、訴えが届いた時にはもう一条天皇の御代となって
いたが、派閥争いには関係ない。
──人はあさましいものだ。他人の足を引っ張る時にこそ、いきいきと血道を
あげる。道長よ。お前は、わしが民を好かぬことに不満なようだが、民の実情とはこういうものよ。民は弱くとも、清らかではないぞ。民だけではない。寺社も貴族も、争いとなれば手段は選ばん──これに関しては先帝を騙して出家させ奉った我らも、同じ穴の狢か。はっはっはっ。
道長が暗澹としていると、兼家は掠れた声で笑った。声の枯れに父の老いを
感じた道長が労りの仕草をみせると、兼家は満足そうに笑みを浮かべた。
──お前も詮子と同じだ。身内に情が深い。わしを苦手にしておっても、そこは信がおける。よいことだ。だから、わし亡き後は、思うようにせよ。民を救おうとするのも、お前の自由だ。権力者には失敗からしか学べぬものもある。どのような失敗をしようが、お前は最後には必ず一族を守るため力をふるう。
失敗を前提にされたのは業腹だったが、道長は父の教えに従うつもりだった。
たとえ、対象が汚れた民であろうが、ひとりでも救えるのなら、救うべきだ。救われた後で心を入れ替えてもらえれば、収支は合う。
具体的な手段はぼんやりとしているが、道長が考えているのが、地方分権だ。
とはいっても、政は利害が衝突がつきものだ。調整役まで地方の自然発生に
任せていては新皇再びだ。
道長が大将軍として下向するのは、中央の統制下で調整役を任せる骨組みを
作るためだ。地方には、地方のやり方がある。
郡司の中に優れた者がいるかもしれない。
寺社の中に利用できる祭事があるかもしれない。
権威と武力で上から押さえつけるだけでは駄目で、持続可能な仕掛けを地方ごとに作る必要があった。
──最優先は、治安維持だ。直秀も馬が巧みであったが、弓馬が巧みな子弟は郡司の中に一定数いるはず。なんとかして彼らを群盗の側に追いやらず、中央の統制下に置く手立てを見つけられれば、地方は安定する。
道長は胸の中で誓う。
──みていてくれ、まひろ。直秀。おれがこの国を変えていくのを。
平伏したまま覇気を漲らせる道長を、道隆は冷たい目でみおろす。
「だめだ」
道長の背が一瞬、強張る。
それ以上の抗弁はしない。道隆がこうと決めれば、今は引くしかない。
摂政を継いでから頑なになる一方の道隆を危うくは思うが、弟として
支え続ける方が優先される。
兼家が見抜いたように、道長は身内への情に厚い。
だからこそ、道長にはわからなかった。
──道長。お前なら、本当にこの国をなんとかしてしまえるかもしれないな。
お前の言動には、そう望ませる力がある。
道隆が改革を許さなかった、真の理由を。
──想像がつくな。救国の英雄となったお前が戻ってきたとき、都にいる私の
政敵が、どのように動くか。
道長を褒め称える。それも過剰に。
父の道隆に引き立てられ、異例の出世を続ける伊周を貶めるために。
道隆の次の摂政の候補として、道長を押し立てるために。
──だめだ。そのようなことは許されない。道長よ。お前は功績を上げては
ならぬ。私の後を継いで摂政となるのは、伊周だ。
道隆は、父の兼家から家を継ぐための教育を受け、穢を遠ざけて生きてきた。
その教育方針を、兼家は一度だけ、変えようと試みたことがある。
一族のため、花山天皇を出家させた寛和の変だ。失敗する可能性の高いこの謀を成功させるため、必要とあれば手を汚せと道隆に迫ったのだ。
穢に近づくのは弟たちの役目だと信じていた道隆は、兼家の期待に応えられ
なかった。父の目に浮かんだ失望と落胆を、道隆は忘れられない。
結果として謀が成功したため、兼家がこの件を持ち出すことは二度と
なかった。その理由も道隆には想像がつく。自分は、父に見限られたのだ。
たしかに、“家”の後継者として選ばれたのは、道隆だ。
だが、本当の意味で兼家の後継者となったのは、道長だ。
そこまでは道隆も我慢できる。我慢してもよい。
だからこそ。
──お前が摂政になることなど、絶対に許されない。
道隆の次に摂政となるのは、伊周を置いて他にない。
謀の才がない道隆が伊周のためにできるのは、息子を強引に出世させ、
摂政への道を切り開いてやることだけだ。
周囲には嫌われるが、道隆にはそれができる。摂政という地位には、前例が
なくても押し通る力がある。むしろ、伊周以後のことを考えれば、摂政には
“前例がない”ふるまいが許される“前例がある”方がいい。
──けれど‥‥私には、道長を排除する決断はできない。
選んだ道に、困難が壁として立ちふさがっていたとする。
長男の道隆は、壁の前で、ただ立ち尽くすのみ。
正道のみを歩くよう教えられた道隆の、それが限界だった。