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橋本夏子の日記

 蒸し暑さのなかに、時折、夏の終わりを思わせるような冷たい風が吹く8月の終わりのことでした。授業が終わって帰り支度をしていると、お友達の市川さんからお食事会のお誘いを受けました。お話を伺ってみると、そのお食事会には他大学の男性も参加なさるとのことでしたので、市川さんには申し訳ありませんが、私には荷が重すぎるとお断りしようと思いました。初対面の男性方と上手にコミュニケーションを取りながら、楽しくお食事をすることができるほど私は大人の女性ではないと考えたのです。しかし、市川さんが私のような者をあんまりにも熱心に誘ってくださるものですから、とうとうお断りすることも忍びなくなってしまい、結局、参加させていただくこととなったのです。
 お食事会は吉祥寺駅の北口から徒歩で5分程の場所にある大衆居酒屋で行われる予定でした。お食事会の開始時刻が19時でしたので、18時45分には吉祥寺駅に到着するようにお家を出発しようと考えていたところ、前日の夜になって突然、市川さんから明日は18時に吉祥寺駅に来るようにとの御連絡がありました。そんなに早い時刻に集合してどうするのかと思い、詳しくお話を伺ってみたところ、男性陣と合流する前に、女性陣だけで集合して、お食事会会場近くの喫茶店で、その日の打ち合わせを行うとのことでした。お食事会前の打ち合わせでは一体どのようなことが打ち合わせられるのか、最初はよく分かりませんでした。しかし、くるくると考えを巡らせていくうちに、その打ち合わせではきっと、初対面の男性方に対して、お食事会の最中にご無礼がないようにするための打ち合わせがなされるのではなかろうかと思うようになりました。私は大変感動しました。なんと美しい心構えでしょうか。私は市川さんと前田さんの心遣いに顔がポッとするのと同時に、私自身の無粋さを大変恥ずかしく思い、恥ずかしさの余り、手に持っていた携帯電話をポイっと放り投げてしまいたい衝動に駆られたのでした。
 お食事会当日は朝からよく晴れました。大学に向かう電車の窓から、南国の海を彷彿とさせるような真っ青でどこまでも広がる美しい青空に、大きくて立体感のある真っ白な入道雲がプカプカと浮かんでいるのを見たとき、なんだか今日はとても愉快な1日になりそうな予感がしました。
 大学の講義を受け終えた頃には、時刻は14時を過ぎていました。大学から家に帰るまでにかかる時間や準備の時間、そこから吉祥寺駅に向かう時間などを考慮すると、ゆっくりしている暇はありません。私は急ぎ足で大学から駅へと向かいました。夏が終わりを迎えつつあるというのに、外は相変わらず蒸し暑く、たった5分程度歩いただけなのに駅に着いた頃には沢山汗をかいてしまっていました。夏子という名前でありながら、私が夏を好きになりきれないのは、疑いようもなく、この蒸し暑さのせいなのです。プラットフォームの地面に落ちた私の携帯電話を拾うと、ポケットからハンカチを取り出して、せっせと額の汗を拭いました。
 家に着くと、シャワーを浴びてから早速、お食事会の準備を始めました。昨日、市川さんから、お洋服はカジュアルなもので良いとの御連絡がございましたので、最近購入したばかりの白い半袖のTシャツに、ボトムスは黒いスラックスというスタイルでお食事会に臨むことにいたしました。いくらカジュアルで良いと言われたからといって、初対面の方々とお会いする場にジーンズを履いていくことは、大人の女性の嗜みとしていかがなものかと思ったのです。
 身支度を済ませると、私はお家を出発しました。吉祥寺駅に向かう電車に揺られていると、心臓の鼓動がだんだん速くなっていくのを感じました。なにせ、初対面の男性とのお食事会に参加することが初めてでしたので、私は大変緊張しておりました。自分の体がまるで自分の体ではないみたいです。家を出て最寄駅に向かうときまでは緊張のきの字もなかったのですが、車窓を流れていく夕日を浴びた街街を眺めていると、どういう訳か、お風呂にバスタブレットを投入したときのように、心の奥底から緊張の泡がジュワジュワと充満していくのを感じたのです。私は隣に座るご婦人に私の心臓の音が聞こえてはいないかとても心配になりました。
 17時50分頃吉祥寺駅に到着しました。北口のアイスクリーム屋さんの前に集合とのことでしたので、私は帰宅ラッシュの雑踏をかき分けかき分けそちらへ向かいました。アイスクリーム屋さんにたどり着くと、既に前田さんがいらっしゃいました。前田さんは綺麗な花柄のワンピースをお召しになっています。私は雑踏の先に知っている方を見つけ大変ホッとした心持ちになり、ちょこちょこと前田さんに駆け寄りました。
「あっ。夏子ちゃんだ」
前田さんは微笑みながら胸の前で小さく手を振ってくださいました。
「前田さん、こんばんは。お待たせして申し訳ありません」
「いやいや、私も今来たところだから。遥少し遅れるから、先お店入っててだって」
「承知いたしました」
LINEを確認すると、確かに3人のグループに市川さんから遅刻の連絡が入っておりました。私は前田さんと2人で喫茶店に向かいました。
 北口の商店街は仕事帰りのサラリーマンの方々や若い男女などで溢れかえっています。
 私たちはお店の2階にある4人掛けのテーブル席を選んで座りました。前田さんがソファ席を譲って下さったので、大変申し訳ないとは思いながらも、人からのご好意は素直に受け取るよう母から教育されてきたので、その教えに従い、前田さんのご好意をありがたく頂戴することにしました。
 前田さんはアイスコーヒーをひと口啜ると、
 「実は少し早く集合しようってお願いしたの私なんだ」
とおっしゃいました。
 「そうなんですね。私はてっきり市川さんが提案して下さったことかと思っておりました」
 「違うの、違うの。私、合コンなんて初めてだから凄く緊張してて、いきなり本番だと緊張でおかしくなりそうだったから、みんなと少しお話してから合コンに臨もうと思ったの。わざわざ早くに集合させちゃってごめんね」
 「いえいえ、謝る必要はありません。実は私もこのような会に参加することが初めてなので、大変緊張しているのです。だから、本番前に皆さんと打ち合わせの時間を設けることができて本当に良かったと思ってます。大変助かりました」
私は感謝の気持ちを込めてぺこりと頭を下げました。
「そんな、頭下げられても困るよ。私はなにもしてないんだから」
 「それにしても、夏子ちゃんが来てくれて本当によかったよ」
 「どうしてですか?」
 「夏子ちゃんは私と同じ種類の人だと思ったから。あんまり男慣れしてないというか。そういう人が私の他にもいてくれると凄く安心するんだよね」
前田さんは屈託のない笑顔を浮かべて言いました。そのとき、私のスラックスのポケットから携帯電話がポトリと落ちました。
 「市川さんもいらっしゃるじゃないですか」
 「あの子は共学上がりだから」
前田さんは今度は退屈そうにおっしゃいました。
 「ほら、夏子と私は2人とも女子校上がりでしょ?だから、共学上がりの子と比べると経験の差があるというか。それでなくても遥って男子の前では変に媚びるところあるじゃない。さりげなく男子にボディタッチしてみたり、突然甘い声で囁いてみたり。私なんかは恥ずかしくてそんなこと絶対に出来ないし、やりたいとも思わないんだけど、結局、そういうことを恥ずかしがらずにやってのける女の子が男子からチヤホヤされるのよね」
私は前田さんがここまで饒舌にお話される姿をはじめて見ました。それでいて、前田さんによる市川さん批判とも取れるような発言に対して、どのように返答して良いのか分からず、とりあえずは黙る他ありませんでした。
 2人の間にしばらく沈黙が流れました。気まずさから逃れるために飲んでいたアイスコーヒーはいつの間にか空になってしまっており、ストローを啜っても氷がグラスにぶつかる音と、無機質な水の味しかしませんでした。
 しばらくして市川さんが到着なさいました。金髪ショートヘアに黒い半袖のTシャツとジーンズというスタイルでした。さすが合コン慣れしているだけあって市川さんのスタイルには一切の気負いがなく、まさしく自然体そのものでありました。その様はまるで武道の達人のようです。
 「ごめんね、遅くなって。予定の電車に乗ろうとしたら、突然吉岡から電話がかかってきて、それに対応してたら結局電車2本乗り逃しちゃった」吉岡さんとは、市川さんの高校時代のご友人で、今回のお食事会では男性側の幹事をしてくださっている方です。前田さんと私は直接お会いしたことはありませんが、市川さん曰くとても優し方だそうです。                     「そうだったんだ。全然気にしないで。それで何の電話だっの?」             「いや、これがほんとどうしようもないんだけどさ、集合時間の確認の電話。『今日の集合時間は19時でいいんだよね』だって。マジで嫌になっちゃうよ。そんなのLINEで済む話じゃん。どうして男子って何でもかんでも電話で解決しようとするんだろうね。ほんと馬鹿」
 「それ最悪だね。トーク履歴遡って確認しろって話だよ」
 「ほんとそう」              
 「ところで、電話の内容って本当にそれだけ?」                    「うん。そうだよ」
 「あっ、そうなんだ。お疲れ様」
前田さんはアイスコーヒーを啜りました。
 「それじゃあ、私も飲み物買ってこようかな。ちょっと行ってくるね」
市川さんはそう言うと一階へと降りて行きました。前田さんは階段を降りていく市川さんの後ろ姿を確認すると、私の方に向き直りました。
 「集合時間の確認の電話だけで電車を2本乗り逃すっておかしいよね」
前田さんの表情が市川さんが到着する前のものに変わってしまっていました。
 「まあ、そうですね。少しお話が伸びてしまったんだと思います」
 「そうだよね。絶対に別の話もしてたよ。まあ、男女が電話でする話なんて大抵どうでもいい話なんだけどね」
 間も無くして市川さんが戻ってきました。市川さんのトレーにはアイスミルクティーが乗せられていました。
 「お待たせ。今何の話をしてたの?」
前田さんは私に目配せすると、
 「いや、今日の合コンに来る人たちはどんな人たちなのかなあって」
 「ああ、なるほどね。それが私もよく分かってないんだよね。吉岡とは連絡を取りあってるんだけど、それ以外のメンバーは吉岡の大学の同級生らしいから。カッコいい男子だと良いよね」
 「うん、そうだね。せっかくならね」
 「というか、夏子来てくれてありがとうね。絶対に来てくれないと思ってたから、来てくれてほんとに嬉しい」
突然市川さんの視線が私の方に飛んできて、内心ビクりとしました。
 「いえ、折角のお誘いですから。それに、思い切って新しいことに挑戦してみるのも悪くないと思いまして。こちらこそ、お誘いいただき本当にありがとうございます」
私はペコリと頭を下げました。しかし、心の内では市川さんの言葉がいささか事実とは異なる印象を与えるものではないかと心配をしていたのです。市川さんの言葉を聞いた方は、市川さんが断られる前提で私のことをお食事会に誘ったのにも関わらず、私が案外とすんなり、というよりか、むしろ進んでそのお誘いをお受けしたと思ってしまうのではないでしょうか。普段はお上品ぶって男性との関わりを避けているように見せかけておいて、男性とのお食事会に誘われたら案外とホイホイついてくるムッツリ尻軽女だと思われてしまっては私としては大変不服なのです。確かに市川さんからお誘いをいただいて、最終的に参加を決意したのは私ですが、その決意を固めるにあたっては市川さんからの執拗なお誘いが大きな影響を与えたことは否定のしようもない事実でありまして、私はなにも男性がいるお食事会に進んで参加するような、所謂「社交的」な女子大生ではないのです。そのような方々と一緒にされることは、即ち、電車の中でキノコみたいなヘアスタイルでダボダボの服を着た所謂「キノコヘッド族系量産型男子大学生」とイチャイチャしている様を、周りの乗客の方々から白い目で見らるのと同じくらい恥ずかしいことなのです。そこまで恥ずかしい思いをするくらいならば、いっそのことアザラシの変装をした上で、井の頭公園の池に飛び込み、近隣住民から人面アザラシのイノちゃんとして親しまれながら生涯を過ごした方が幾分かマシだとすら思うのです。しかし、私はその場で市川さんの言葉を訂正することはしませんでした。その勇気がなかったのです。
 打ち合わせという名のお茶会は意外な盛り上がりを見せ、気がつくと時計の針は19時を過ぎようとしていました。私たちは大慌てでお食事会場へと向かいました。
 19時10分頃、私たちはお食事会場の居酒屋に到着しました。店員さんに連れられ半個室の座敷へ向かうと、男性方は既に到着されていて、通路側に横並びでお掛けになっていました。私たちは壁側の座席に同じく横並びで座りました。私は1番後ろから入ったので必然的に私たちからみて1番左の席に座りました。テーブルを挟んで向かいに座る男性方はどの方も非常に人が良さそうな方々でしたが、そのなかに1人だけキノコ頭の方がいらっしゃったので、「そんな髪型をしていたら、本物のきのこだと勘違いした株式会社明◯の方々に連行され、工場でチョコレートをコーティングされた上で、きのこの山として出荷されることになってしまいますよ」と忠告して差し上げたかったのですが、人様の髪型をいちいち気にしないことが大人のマナーであるとの母からの教えを守り、ここはぐっと堪えることにしました。
 腰をおろすや否や、市川さんが男性方に挨拶をしました。
 「遅くなってしまってごめんなさい。私は吉岡と高校時代同級生だった◯◯女子大3年の市川遥といいます。今日はよろしくお願いします」
さすが市川さんだと思いました。なんともスムーズな導入です。市川さんに続いて1番右奥の男性が挨拶を始めました。
 「はじめまして。僕が××大学3年の吉岡です。市川とは高校3年のときに同じクラスで仲良くしてもらってました。男子メンバーはみんな僕の大学の同級生です。今日はよろしくお願いします」
とても感じの良い方だなと思いました。服装は適度にカジュアルで清潔感もあり、なにより人懐っこい笑顔が素敵です。しかし、この方となら楽しくお食事できそうだと感じたその刹那、
 「吉岡とはるかっちはどういう関係なんですか⁉︎えっ⁉︎もしかして、ラブラブだったりして!」
品のない野次がどこからともなく飛んできました。私は隣の座敷のタチの悪い酔っぱらいがこちらに絡んできたのかと思いましたが、周りを見渡してもそのような酔っぱらいの方はいらっしゃりません。どういうことかと更にキョロキョロすると、下品な野次はどうやらキノコ頭さんから発せられたものでした。私は毒キノコが座敷中に毒を吐き散らかしてるのかと思いました。そして、その時確信したのです、そのキノコはまさしく、「キノコヘッド系量産型男子大学生」、ならぬ、「毒キノコヘッド系量産型男子大学生」であると。野次られた吉岡さんは困惑しています。たいして、市川さんは立派でした。困惑した表情など微塵も見せず、
 「そんな訳ないじゃん。私と吉岡はただの友達ですー!」
と言って、場が白けるのを回避しました。お食事会の幹事というのは、毒キノコが吐き散らかした毒の消毒作業までしなくてはいけないのかと辟易とすると同時に、市川さんの仕事人ぶりに感動した私は心の中で市川さんに拍手を送りました。その後も毒キノコは他の人の自己紹介のたびにつまらない毒を吐き散らかし続けました。飯田さんの自己紹介の際には、
 「同じく××大学3年の飯田です。合コンに参加することが初めてで、あまりルールとかよく分かってないんですけど、是非仲良くしてください。よろしくお願いします」
と言った飯田さんの頭を叩き
 「お前緊張しすぎだっての!童貞か!」
と大きな声で宣って芸人さんのツッコミの真似事のようなことをしました。それから私たちの方に視線を移しウケを確認したのち、
 「こいつマジで真面目なんだよ!真面目すぎて女子と上手く会話できないの。ヤヴァいよね!」
と満足気に語りました。飯田さんは苦笑いを浮かべて、少し俯き気味になりました。飯田さんがとても気の毒になりました。それに加え、「やばい」を「ヤヴァい」と発音する際の「ヴァ」の部分で毒キノコの口から大量の唾が飛んでいくのを見て、思わず吐きそうになりました。気がついたらありえないくらいの鳥肌が立っていました。
 毒キノコの名前は佐藤さんといいました。一応、佐藤さんの自己紹介を覚えている範囲で以下に書き記します。
 「ちわっす!佐藤でーす!趣味はキャンプとか釣りとかお笑い鑑賞とかかな!高校の卒業式で漫才やるくらい、とにかく面白いことが好きで、面白さが全てだと思ってます!大学は他の2人と一緒だから、いちいち言わなくても良いよね!今日は元々別の予定が入ってたんだけど、吉岡が来て欲しい来て欲しいって蝉みたいにうるさいから、別の予定を急遽キャンセルして来てみました。けど、みんなめっちゃ可愛いくて、マジで来てよかったなって思ってます。吉岡も飯田もマジでクセが凄いけど、よろしくね!」
 他の人に比べてやたら長くてつまらない自己紹介をダラダラと行う佐藤さんの図々しさと自己顕示欲の強さにその時の私は呆れ返ってしまいました。一方で、よくもまあここまで面白くもない自己紹介を、さも面白いことを言ってるかの如く、したり顔で宣い続けることができるものだと、佐藤さんのメンタルの強さに少しばかり感心したりもしました。その後も佐藤さんは他の人の自己紹介中に何度となく合いの手を挟んできましたが、そのどれもが絶妙につまらないものばかりで、あまりのセンスのなさに最終的には佐藤さんのことが寧ろかわいそうに思えてきました。佐藤さんとはなんと悲しい存在でありましょうか。面白い人間でありたいと願いながらも、面白い人間になれるだけのセンスを持ち合わせていないのです。そう考えると、私は佐藤さんの髪型にだんだん腹が立ってきて、心の内で
『才能のない凡人はせめておでこを出せ。前髪で目を隠すことで、なにかしらの才能を持ってますよ感を出すな、馬鹿野郎』
と叫びました。才能のない凡人には目を隠すほどの前髪は不要なのです。凡人が自分を大きく見せるために嘘をついて、身の丈以上の存在に見られようとすることには最早嫌悪感しかないのであります。私は佐藤さんが先程からチリチリとイジっている前髪を鷲掴みにして、そのまま引きちぎってやりたい衝動に駆られましたが、そこはグッと堪えました。
 私がお手洗いから座敷に戻ると、佐藤さんが突然
 「さてさてさてさて!そんじゃ、ここいらで連絡先交換タイムといきましょうや!」
と言い始めました。はっきり言って嫌でした。吉岡さんや飯田さんとならばまだしも、佐藤さんとは連絡先を交換したくなかったのです。佐藤さんと連絡先を交換するくらいならば、不審者と連絡先を交換した方がまだマシです。しかし、場の空気というものは恐ろしいものです。私は連絡先交換の渦に飲み込まれてしまいました。佐藤さん以外の方々に不快な思いをさせてはならぬと、断腸の思いで携帯電話を差し出すと、私の携帯電話を見て佐藤さんは叫びました。

 「いや、クセが凄いんじゃあ!は、橋本さん、携帯の画面のクセが凄い!範馬勇次郎の腹筋くらいバキバキじゃ」

その時、私はあまりのつまらなさに思わず吹き出してしまいました。ここまで堂々と芸人さんの物真似をして恥ずかしくないのでしょうか。芸人さんの真似をしておきながら、さも自分が面白いことを言ったかのように振る舞うのは滑稽以外のなにものでもありません。ここまで惨めで品もなく、くだらなくて哀れで報われず、つまらない人間が存在したことに私は呆れを通り越して面白くなってきてしまいました。しかし、大変不思議なことなのですが、笑っているうちに徐々に徐々に面白いという感情が、今度はもっと乱暴な感情に変わっていき、私はその乱暴な感情をそのままぶつけるかのように笑いました。その結果として私のお腹が引きちぎれてしまってもやむなしといったような勢いで大変乱暴に笑いました。そのときの私の笑い声はともすると笑い声というよりも怒声、もしくは奇声に近かったかもしれません。しかし、私はそんなこと気にせず叫び続けました。喉が詰まり、それに加えて過呼吸気味になったことなど気にも留めず、それどころか無理矢理に喉から息を吐き出し続けることによってそれらをも吹き飛ばしてしまおうとすら思ったのです。そのときの私はまるで暴走ブルドーザーのようでした。
 隣に座っている前田さんが私の背中をさすりながら、お水を手渡してくださったので、一口いただきました。そして、多少の落ち着きを取り戻して顔を上げると、向かいの席には私のことを心配そうな目で見つめる佐藤さんがおりました。そのお顔を拝見したとき、心の奥底から今度は大変意地悪な気持ちが込み上げてきました。その気持ちはまるで半紙の上に溢れた墨汁がみるみるうちに半紙を黒色に染め上げていくかのように、私の心をすぐさま真っ黒に染めていきました。私は軽蔑の気持ちを多分に含んだ目で佐藤さんを見つめると、大変意地悪な気持ちを込めて
 「佐藤さんって本当に面白いお方ですね」
と皮肉を申し上げたのでした。佐藤さんは何故だか顔を赤くして私から目を逸らしました。
 時計の針が21時30分を過ぎた頃、お食事会は終了となりました。会計を済ませ店の外に出たところで男性陣とは解散しました。佐藤さんは最後の最後まで前髪をチリチリといじり倒していました。
 市川さんたちと別れ、1人になると再び笑いが込み上げてきそうになったので、近くにあった駅の多目的トイレに急いで駆け込み、口を両手で必死に押さえてなるべく声が漏れないようにして笑いました。しばらくして、笑い疲れたのでトイレの中で少し休憩していると、携帯電話に通知が来ました。ポケットから携帯電話を取り出して見てみると、なんと、佐藤さんから長文のLINEが届いていたのです。その内容はわざわざ書き残すほどのものではないので省略いたしますが、中年男性が2回りくらい年下のキャバクラ嬢に対して送るような下品でセンスのない、ただただ長いだけで中身も内容もまとまりも無い駄文でありました。それを拝読したあと、今度は周りを気にすることなく大声で笑いました。佐藤さんは馬鹿だと思いました。加えて、やっぱり報われない人間だとも思いました。ここまでセンスがなく、尚且つ、物事を自分にとって都合が良いようにしか解釈できない人間を私は知りませんでした。それは一種の天才的な才能としか言いようがありません。佐藤さんの頭のなかはきっと、幼稚園児がお絵描きの時間にクレヨンで描いた、単純な色や形のみで構成されたお花畑が広がっているのでしょう。心が再び真っ黒な感情に侵食されるのを感じ、私はその感情に任せて携帯電話を扉に向かって乱暴に投げつけました。勢いよく飛んでいった携帯電話はトイレの扉に大きな音を立ててぶつかり、地面に落ちました。その音を聴いたとき、大変胸がすく思いがしました。一通り笑い終えると、私は地面に落ちた携帯電話を拾ってトイレを出ました。
 その後、私が佐藤さんにお返事を出すことはありませんでした。

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