全裸先生
若者よ服を脱ぎ捨て街へ出よ
さすれば道は開かれん
神の与えし肉体を
いかでか布で隠さんや
己が肉体剥き出して
世界に向けて叫ぶべし
どこにあるのか、いつからあるのか、それら全てが謎につつまれた赤玉村という小さな村にとりわけ奇妙な中年男あり。本名年齢いずれ不詳。分かっていることは、彼が常に全裸で生活をしているということ、だらしのない肥満体型であるということ、それでいて不思議なことに溢れんばかりの気品を湛えており、村の人々からは「全裸先生」と呼ばれ一定の尊敬を集めているということである。確かに赤玉村は比較的法律の縛りが緩く、村のあらゆる運営も基本的には性善説に則って進められるほど大らかな村であるのだが、中年男が全裸で街を闊歩することが許されるほど甘い訳でもない。が、村の人々は皆この男に関してだけは全裸で街を出歩くことを許している。許しているというよりも、この男が全裸でいることに対して疑問すら抱いていないのである。この村では、まさしく「常識」では考えられない事態が起きてしまっているのだ。
ところで、彼が湛える溢れんばかりの気品がどこからくるのかと云えば、それは彼の気高き精神に起因するものであるらしかった。どんなに奇妙なことをしていたとしても、堂々とした振る舞いをしていれば、不思議なことに周りはそれを見ても当然のこととして受け止め、なんら違和を抱くことなく受け流してしまうということは多々ある。堂々とした振る舞いはそれだけで絶大な説得力を持ち、他の者を黙らせてしまうものである。翻って言えば、正しいと思われることをしていたとしても、その様が自信のないものであったならば、人々はその者に対して疑いの眼を向け、たとえ不正を働いていないと分かったとしても、その者を侮蔑の対象とすることであろう。その点、この男はどうであろうか。自分が全裸であること、それだけに留まらず、その体型が所謂肥満体型であることに対して少しも恥じらいを感じている様子などない。また、その反対に自らの肉体を人々に見せ付けてやろうなどという破廉恥な考えなども微塵も感じさせない。彼にとっては、そもそも全裸で街を闊歩していることそれ自体がなんら特別なことではなく、言うなれば呼吸することと同程度に当たり前のことであるのだ。そして、それこそが彼にとっては生きるということなのである。当たり前のことをしているのに、なぜ恥ずかしがる必要があろうか。こうした強い信念に基づく恐ろしいまでに見事な開き直りこそが彼が不思議な気品を醸し出す秘訣であろう。そして、彼には全裸で生活すること、もしくは衣服によって己の肉体を包み隠すことを潔しとしないことに関して相当なこだわりがあるらしく、そのことを実践することによって自らを高め、崇高な人間になろうとしていることもその要因の一つであると考えられる。
しかしながら、彼がこのような地位を手に入れるまでには大変な苦労があった。遥か昔、彼がはじめてこの村に出現したとき、当然のことながら村の住人は裸体の男を目撃して慌てふためいた。いくら堂々とした振る舞いをしていたとしても、全裸で街を闊歩する人間を初めて目撃したときの衝撃を誤魔化すことは出来なかった。赤玉村は大変小さな村であり、人々の関係性が密接であることから、第一発見者である噂好きの八百屋の婆さんを始点として、中年全裸男の出現は瞬く間に街中に知れ渡り、当然のことながらその情報は赤玉村警察署にも伝わった。
当初、警察は事を荒立てるつもりなどなく、厳重注意という形で穏便に済ませようとした。もう二度と全裸で出歩いたりしませんという誓約書にサインをしてくれさえすれば大目にみるつもりであったのだ。が、彼はその誓約書にサインをすることを拒んだ、加えて警察が用意した衣服に袖を通すことに関してはそれ以上の拒絶を見せた。丸二日に渡る警察の粘り強い説得にも関わらず、なかなか首を縦に振ろうとしない彼に対し、さすがの警察も愛想を尽かし、最終手段として、これ以上駄々を捏ねるのであれば厳罰に処す可能性があることをちらつかせた。が、この作戦も彼に通用することはなく、それどころか彼は「己の信念を否定して生きながらえるくらいならば、今ここで法の定めるところに従いて栄光ある死を選ぶ」と怒鳴り、担当警官を黙らせる始末であった。その時の彼の迫力は凄まじく、取り調べの鬼と恐れられた名物警官でさえも、彼の恐るべき剣幕の前ではだじろぎ、黙り込む他なかった。結果、自分たちには手に負えないし、尚且つこんな人間と関わり合いを持ってはならないということを悟った警察は、とりあえず二日間は警察署で厳重注意を行ったということで、彼を釈放してやることにした。釈放してやる、と言えば聞こえはいいが、その実情は、警察が厄介者の世話を放棄したと表現した方が正確である。
何はともあれ、法に触れる行いをした人間が無罪放免となったのは、赤玉村警察始まって以来初の特別措置である。が、その後も一定期間が経過するごとに彼は連行され、その都度、長時間に渡る取り調べを受けることとなった。彼が何回連行されたのか、その数を正確に知る者はいない。しかし、両手両足の指全て足し合わせても到底足りないほどの回数であることは確からしい。ある者はその数100回以上と言い、なかには500回をゆうに超えるのではないかと言う者までいるほどだ。しかし、その途方もない回数の取り調べを通して、彼が警察権力に屈したことは一度もなかった。
ところで、人間の持つ「慣れ」という能力は本当に恐ろしいものである。補導・取り調べ・釈放という一連の流れを気が遠くなる回数繰り返し、それなりの年月が経過していく過程で村の人々はいつしか彼の裸体を見ても何も感じなくなったのだ。裸体の彼が街を闊歩している姿は赤玉村において、なんら特別なものではなくなり、従って、今や彼を「常識」や「道徳」などといったつまらぬもので諌める者もいない。長い戦いの果てに彼が裸体でいるということが新たな「常識」になったのである。つまり、「常識」を変えたのだ。彼の完全勝利である。「常識」などというものは所詮その程度に脆く、曖昧なものであり、だからこそ、我々は自分の中に確固たる信念を持ち続けなくてはいけない。彼の長きに渡る警察との壮絶な戦いは、こうしたメッセージを伝えるものであった。
そんな彼が今現在何をしているのかといえば、定職に就く訳でもなく、朝日が昇るのと同時に起き、街に出て、村の若者たちの人生相談に乗りながら、その報酬として飯を恵んでもらい、日の入りと共に寝床に帰るという生活である。若者が抱える悩みなどというものはいつの時代も、そして、どんな地域においてもほとんど共通しており、大概が恋愛相談をはじめとした人間関係に関するものや生き方に関するものであった。彼はそれらの問題を彼なりの理論によって鮮やかに解決してみせた。すると、いつしか彼は街の若者たちから「全裸先生」と崇められるようになり、数十人の生徒を持つまでになったのである。村の人々はこのような彼の頭脳の明晰さを讃え、尊敬し、ついに彼の名は赤玉村随一の知者として村中に広く知れ渡ることとなる。
兎にも角にも我々はこのような奇妙な中年全裸紳士のことをこれから暫く追いかけなければならない。なぜなら、この男の行先にはさらに壮絶な未来が待ち受けているからである。無駄なことに時間を使うことのできる新時代のエリートだけが、これから先も我々と共にこの道を進むが良い。それ以外の者は早々に去るが良かろう。
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