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太宰治っぽい文章を書いてみた

 どうやら、太宰治の『人間失格』を読むと大抵の人間が「これは自分のことを書いている!」と思ってしまうようで、それは中学時代の私も例外ではなかった。特に、

誰でも、人から非難せられたり、怒られたりしていい気持がするものでは無いかも知れませんが、自分は怒っている人間の顔に、獅子(しし)よりも鰐(わに)よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾(しっぽ)でピシッと腹の虻(あぶ)を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄(せんりつ)を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。(太宰治「人間失格」から)

という文章はかなり共感できるもので、これを読んだとき中学時代の私は思わず膝を打った。当時の私が親や学校の先生、野球チームの指導者、友達の保護者など、特に目上の人間に対して漠然と感じていた恐怖であったり、偽善であったり、嘘くささがここまで明瞭に文章化されているのに大変驚いたのである。怒らせたら怖いとかそういった表面的な次元の話ではなくて、もっと本質的なところ、大人は心の奥深くに無慈悲さであったり暴力性であったりといった恐ろしい本性を隠し持っているのではないか、もっといえばそれこそが人間の本質なのではないか、という不安が当時の私にはあって、それを考えるたび、大人には深入りしてはいけない、安易に踏み込むと恐ろしい目に会うと思うのであった。その感覚は今も少なからず残っている。現在に至っては、私の同世代の人間も所謂「大人」に分類される歳になったから、恐怖の対象が同世代の人間にまで拡大されてしまったのだから手に負えない。そのためか、人間関係に於いて、他者とは一定の距離を保つことを意識するようになった。なにがその人の怒りのスイッチか分からない以上、馴れ馴れしくその人のパーソナルな領域まで踏み込むべきではないと考えたのである。それゆえ、他者に対して無遠慮にもかなり踏み込んだ発言をする人間を見ると冷や汗をかきそうになる。が、一部例外はあれど、そういったコミュニケーションができる人間は多くの場合モテる人間であって、それこそ芸術的ともいえるような塩梅で相手の心に踏み込む会話術は異性同性問わず、相手の心を開き、その後の関係性を容易に発展させてしまう。一方で、私のように石橋を叩いて叩いて、さらに叩いて、といったような当たり障りのないコミュニケーションしか取れない人間がモテないのは言うまでもない。私がやっとの思いで天気の話をしている間に、彼らは異性と然るべき場所でよろしくやっているといった具合である。
 そんなことを考えながら久しぶりに人間失格を読んだのだが、それをきっかけに私も太宰っぽい文章を書いてみたくなった。もしかしたら書けるかもしれない、ふと思ったのである。ということで、以下は私が書いた太宰っぽい文章である。では、どうぞ。


 「太宰っぽい文章」

 私はこれまでなるべく無害な存在であろうと努めてきました。争いごとを遠ざけ、もし相手が敵意を持ってこちらに向かってきたのならば、早々に白旗を揚げて、多少の傷を被るのを甘受することで争いを回避してきたのです。私には人から恨まれたり敵意を向けられることが何より恐ろしく、面倒くさいことだと思われるのです。例えば、夜、布団の中で眠りにつこうとしているその時にも、この世界のそう遠くはないどこかで私に対する憎しみの炎をたぎらせている人間が存在していて、この瞬間にも机上のライトしか灯っていない薄暗い部屋のなかで机に向かって背を丸めながらありとあらゆる復讐の方法を模索している人間の気味の悪い後ろ姿を想像すると、私は安心して寝られないばかりではなく、恐怖で息が詰まりそうになります。そんな状況で常に復讐に怯えながら過ごすくらいならば、今すぐにその人の家に走り、子犬が飼い主に餌を求めるときのような情けなく媚びた笑顔を顔面に貼り付け、土下座して、許しを乞い、それでも足りなければ靴をピカピカになるまで舐めて、相手からこいつは復讐する価値すらない人間だと心底軽蔑されてしまった方が幾分もマシだと思うのです。許してください、というよりも、どうか私のことを忘れてください、なかったことにしてください、という方が私の本心に近いでしよう。許すということは決して終わりではないのです。言うなれば焚き火後の炭と同じで、見た目火はついていなくとも、何かの拍子で、それこそひとたび乾燥した風が吹きつけようものならば激しい炎を再燃させ、それは知らぬ間に燎原の火となって私という人間を憎悪によって燃え尽くしてしまう。許す、ということは相手との関係がまだ残っている状態、しかし、それは以前までの関係とは少し異なる、許した方と許された方という明確な上下関係が新たに存在する関係なのです。要は、許した方は心のどこかで許された人間に対して貸しがあると考えている訳です。あなたはそんなことあるはずがない、考えすぎだ、とおっしゃるかもしれませんが、決してそんなことはないのです。私たちは人からしてもらったことに対しては甚だ無関心ですが、人にしてあげたことに対してはそれこそ異常と言えるほどの恐ろしい執着をみせるものです。人に親切にしてあげたり、許してあげたり、好印象を抱いてあげたり、時には愛おしさ故に身体を許してあげたり、私たちは最終的には自分の意思によって相手に何かを与えているのにも関わらず、ひとたびそれが裏切られでもしたのならば、その人間のことを決して許さないのです。その性質は普段周りの人間から温厚な人、良い人、優しい人、と言われている人間にこそ顕著で、彼らはひとたび裏切られたと感じたらその人間のことを表面的には許したフリをしていても、本心では許すことはありません。自らの善意を踏み躙られることが何より嫌いなのです。彼らにとって人に善意を向けるということはそれ自体が彼らのアイデンティティであって、それを蔑ろにされるということは即ち存在の否定と同義なのです。そして、執念深い彼らは自らが味わった屈辱を晴らすべく、虎視眈々と好機を伺います。そのような人種、とはいえ殆どの人間がそうなのですが、彼らは復讐を果たす絶好の機会が訪れれば、過去に自らがその人間から受けた裏切りの記憶を錦の御旗として、情け容赦なく報復してしまうのです。

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