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自立と自律

先日「この先もここで働きたいの?」と聞かれることがあった。

それは、来年2月でいま通っている作業所との契約が切れるので契約延長に伴う関係者との面談で発せられた言葉だった。

「ここ以外に行くところもないので」

私がつまらない答えを告げると「そう」とだけ返された。

今の作業所のこと

そもそも、私にとってどこで働きたいか・何をして暮らしたいのかはさして重要ではなかった。

作業所に入った時、私はニートの23歳でぼちぼち金銭的に自立していかなければいけなかった。なにより家族がそうするように圧力をかけてきていたし、新しい趣味との出会いで私自身もそう望んだ。

私は「お金」と「働いているという周囲への言い訳」が欲しかったのだ。

特に後者は壮絶で、働かなければ人間ではないという周囲の価値観はたびたび私を苛んだ。

20歳を過ぎて一度も働いていないことを責める両親も、「まだ仕事してなかったんだ」と奇異の目を向けてきた親戚にも、なにより働いていないことに劣等感を感じている自分も嫌だった。

労働は自立の証明である

この2年で、それを痛感することが増えた。

週2~3日程度でも一応仕事してるという事で、周囲の目は「多少してるのか」というまなざしに変化した。

なお、両親から体調不良で週1の時もあることで文句をぶつけられる時や台風接近時の出勤を拒む私にこの程度は労働じゃないと言われることも多かったが、私自身お金以外の理由で勤労に励む理由はないしなにより「悪天候や体調不良を押してまで労働をしてるほうがおかしい」と思うのだがその辺のことは置いておく。

周囲の目は「日数は少なくても働いてる」ということで変わったが、私自身はむしろじわじわと調子が悪化していった。

人間関係の構築を放棄することでセクシュアリティやコミュニケーション能力の問題からは逃れられたが、それでも単調な仕事や病的な憂鬱さからは逃れられず始業前に安定剤を飲んで何とかやり過ごしていた時期もあった。

心の支えは高校生バイト時給の三分の一という少なすぎる工賃と母親のくれる昼食代で買うご飯やおやつ、そして趣味である漫画・旅行・ラグビーだった。

人はよく「自分の金で食べるごはんは美味い」というが「他人の金で食う焼肉と酒のほうが美味い」と思うし、今でもそこは変わりない。何なら自分の金だと財布の中身が足りるか不安で安心できない。

それでも自分の金があることでいちいち人にたかるためにどういう策を弄するか、収入をいかにやりくりするのかへのストレスは多少軽減された気がする。

労働にメリットはあるのかと懐疑的だった私であるが、メリットもないわけではないというのが今の結論だ。

「自立と自律は別物だよ」

中学の時、担任教師に言われた言葉だ。

曰く「自立は自分の足で立つこと、自律は自分を律すること」だそうで私は「せやな(鼻ホジ)」ぐらいに聞き流していた。

今になって思うのはこの違いについて案外分かってない人が多い気がするという事だった。

金銭的に自立していなければ、自分を律しているという風に周囲から思われない。

ニート時代の私は、朝起きて夜眠るというリズムを保ち、酒は好きだが時々しか飲まず、煙草や賭博に手を染めず、暴力や違法行為もせず、多少の家事をして生きていた。

それでも無職ということ周囲は責め立て、私自身もたびたび劣等感に苛まれた。

いま至った答えは一つ。



「はたらくとは、自己自律の社会的証明である。」

私の見た限りそれが答えなんじゃないかと思う。

自立できていない人間は自分を律することも出来ず、そうした人間は社会に自分の居場所を置くことができない。

その良しあしについてはいつか別のところで語ることになるだろう。

でも今日はこの辺で。