20年ぶりの相模湖。平和な一日。時々内省。ポール・オースター『幽霊たち』とともに
共働き50代、二人暮らしの私たち。私は9月の大旅行(隠岐など)、夫も連日残業で、それぞれの親も病院がちだったりで、ルンバを買うの買わないので大喧嘩したり、でも、その週末は久しぶりに二人ともほっと一息で、うそのような秋晴れで。私の提案で、新宿から一路、相模湖に向かった。
高尾で乗り換えて1駅、相模湖駅へ。私は高校時代の3年間を八王子の山奥で過ごしたので、当時は高尾山や相模湖が身近だった。免許取り立ての頃、初めて遠出したのも相模湖だった。20年ぐらい前、当時付き合っていた前の夫(離婚)と来たのが最後だったかもしれない。相模湖の記憶は「何もない」ことと、レトロなゲームセンターがあったこと。
私はあの若い頃から就職し、転職を繰り返し、結婚し、離婚し、また再婚した。かくして、20年ぶりの相模湖。
私が人生で何をどうしてこようと、相模湖は相模湖、そのままの姿がここにあった。久しぶりの土地を訪れてその変貌に驚く(しかもたいていはどの土地も均質化されていくことへの寂しさを伴う)ことは多々あれど、この「変わらなさ」は私に安寧をもたらす。わしゃわしゃ、ざわざわ、心さまようことが多い日が永遠に続くような中、定点観測の場所が変わらないでいてくれることのありがたさ。
日々の仕事と雑事で疲れ果てていた私たちの今日のテーマは「何もしない」。見つけた日陰の一角で夫は昼寝、私は最近決意した積読を崩すべく、ポール・オースター『幽霊たち』を読む。時々、湖と青空、雲に目をやりながら。
「何もしないをする」ことの贅沢さがよくいわれるけど、雑事も動画コンテンツもTODOリストも親からのSNSメッセージ交換も目白押しな昨今、「何もしない」の実行はなかなか難しい。『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)のとおり、私も平日の夜、スマホコンテンツはチェックするのに、本に手が伸びない。
忙しいから読めないんじゃない。読もうとしないから読まないんだ、そう頭でわかってはいても。これではいけない、せめて休日はと持参したのが積読の一つ、ポール・オースターだった。
『幽霊たち』は先日、ポール・オースターが死去した時の誰かの追悼記事で知った。「ニューヨーク3部作」の一つ。
私がポール・オースターで思い出すのは、柴田元幸さんのゼミに当時の友人がいた影響でその名を知ったこともあったが、何と言っても彼が脚本も書き、ラスト、登場人物の一人から延々と語られるストーリーの原作も書いている映画『スモーク』。大きなことは起こらないけど各人がそれぞれ人生の陰影を表情に漂わせ、あるときふと小さな幸せをかみしめる、そこにこそ人生のすばらしさがある、みたいな語り口が好きだった。観たのはもう20年ぐらい前だ。
50を過ぎて、湖のほとりに寝転んで読んだ『幽霊たち』。ブルーという私立探偵が、ホワイトという謎の依頼人から、ブラックという人物を始終監視し報告書を週1で送ってくれという依頼を受ける。ブラックの部屋が見える向かいの部屋から、ブルーは延々、言われた通りにブラックを監視し続けるが、ブラックは始終机に向かって書き物をするばかり。単調な赤の他人を監視するだけの日々の中、ブルーは図らずも内省し始める。
「現在は過去に劣らず暗く、その神秘は未来にひそむ何ものにも匹敵する。世の中とはそういうものだ。一度に一歩ずつしか進まない。一つの言葉、そして次の言葉、というふうに。この時点のブルーには決して知りえないことがいくつもある。知識は緩慢にしかやって来ない。そしていよいよやって来たときには、しばしば大きな個人的犠牲を伴うのである。」
「彼は過去によってマークされてしまったのだ。ひとたびそうなってしまえば、もうどうしようもない。ブルーは考える。いったん何かが起きてしまえば、それは永久に起こりつづけるのだ、と。二度と変えることはできない。永久にそうであるほかはないのだ。ブルーは次第にこうした思いに憑かれてゆく。」
情緒不安定になってきたブルーは、ほとんど読書したこともなかったのに、ブラックが読んでいたソローの小説『ウォールデン』を読み始める。
「しかも『ウォールデン』の難解さには定評がある。読書経験豊かな、洗練された読者にとっても厄介な本である。ほかでもない、あのエマソンでさえ、ソローを読んでいると不安でみじめな気分になってくる、と日記に記している。だからブルーは立派である。あきらめずに再度挑戦したのだから。翌日、彼は、はじめからもう一度読み直す。二度目の行軍は一度目に較べ道も楽である。第三章で、彼はついに、自分に何かを語りかけてくる文に行きあたる──書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さとをもって読まれなければならない。彼は一挙に理解する。こつはゆっくり読むことなのだ、と。言葉に接するときのいつもの速さを捨てて、じっくり読み進めることなのだ。」
「書物はそれが書かれたときと同じ慎重さと冷静さとをもって読まれなければならない」この文に当たって以来、私もブルーのようにゆっくり読みを実践することにした。
だんだんと、ブルーは書物の言葉を血肉にしていく。日常の自身の感情を、読んだ小説の一節と結び付けていく。
「正確には何と書いてあったかと、彼はノートをめくってみる。たしかメモを取っておいたはずだ。我々は我々の真の居場所にはいない、これだこれだ。我々は偽りの場にいる。人間としての本質的な弱さゆえ、我々は檻を夢想し、自分をその中に閉じ込める。したがって我々は同時に二つの檻の中にいるのであり、そこから抜け出すのも二重に難しい。なるほどその通りだ、とブルーは思う。」
読書を中断して、別の場所で昼寝していた夫の様子を見に行くと、夫はスマホで「ふるさと納税」の残りの寄付額を算出し、鰻かなんかを頼んでいる。せっかくはるばる湖まで来たのにそんなこと、家でも通勤電車でもできるじゃないかと私は怒る。「それぞれ好きなことをしようと言ったじゃないか」と夫は言い返してくる。
「分かった、じゃ別々に」と、憤った私はまた別のベンチを探し、読書を再開する。すぐ近くで「遊覧船、2時から出発です!乗りませんか!ワンちゃんも乗船できます」と、おとうさんの呼びこみが、湖のほとりにこだましている。
最近、こういう仲たがいが増えた。理想の休日であってほしい、そのために夫にはこうあってほしいという願望は、永遠に叶わない。それに、自分の願望のために他人が変わってくれることはない。他人を巻き込んで自分の願望をかなえようとする前提自体が間違っている。……と、自分の憤りが、ブルーの独白のようになってくる。
『幽霊たち』に意識を戻す。幼き頃の父との思い出、「未来のミセス・ブルー」への妄想と邂逅、現実と空想を織り交ぜながら、ブルーの葛藤と行動がつづられていく。そして現実は容赦なくブルーに降りかかり、ブルーの決断。余韻を残して突然、物語は終わる。
「ふるさと納税」を頼み終えた夫は、「徒歩10分なら」と、やっと私の願望に付き合ってくれる。文字通り10分歩いて、相模ダムへ。
最近よく移動を億劫がる夫。まだまだアクティブに過ごしたい自分との体力差や、出会った時とのコミュニケーションの変貌に起因する私のわだかまりは、自分でわだかまらなくしなくては、と思う。これは私の問題なのだ。
一度結婚を失敗した私は、人の心のはかなさを知ってしまった。現に、前夫と同じこの場所に来たときは、幸せしか見えてなくて、あんな別れが待っているとは思わなかった。
夫の態度は、私という人間への評価だ。いらぬ言葉を言ってしまったり、我慢が足りなかったり、過度に共感を求めすぎたり。
心の奥底では、私はまた大事な人を失う日が再び来ないとは言い切れないと思ってしまっている。
人間不信なのだろうか。
帰りは八王子の繁華街で、焼売と餃子の店をはしごした。30年ぶりの八王子はSOGOがとっくになくなって知らない名前のビルになっていたり、でもこの斜めのストリートは変わらないなと思ったり。
「ぎょうざの満州」に行った。昔、夫が千葉にいたころ御用達だったらしく、絶賛し続けていた。しかし都内(私の今の生活圏内)にはないチェーン店で、絶賛されるまま時が過ぎていた。それが、八王子にあった!
餃子は美味しかった。味もそうだが、このシチュエーションが私は気に入った。高校時代を過ごした街で、思ってもみなかった出会いの夫と、「ぎょうざの満州」で乾杯している。夫は私に「ぎょうざの満州」を初体験させられて得意げで、うれしそうだった。
こういう仲直りの仕方を教えてくれたのは夫だ。私はいちいちを深刻に受け取りすぎなのだ、と、私はブルーの口調で内省した。
でも、内省とは生きることだ、それをまるごと描いた小説があるのだから、と心強さも感じた。自分に語りかけてくる一文に会うために、「なるほどその通りだ」と思う瞬間のために、小説があるのかもしれない。
小説から、現実の人間から得られない心の寄り添いが得られれば、現実もうまくいくかもしれない。空いた中央線の帰り道で、そんなことを考えた。