
「その書店、切っていいから」AI皆無、営業部長と先輩の言動が全てだった1996年。出版社飛び込み営業の思い出
※企画応募のため下記記事より改稿しました。
https://note.com/akabeco/n/n046ac00dfda5
「大卒初任給が30万円台」「就職氷河期世代からは恨み節」といったニュースを目にする。
私は団塊ジュニアで一番人数の多い1973年生まれ、イチローと同じ51歳、1996年就職のドンピシャの氷河期世代だ。大学4年次の10月、半ば押しかけのような形でやっと採用された小さな出版社の営業から、私の社会人生活は始まった。その後フリーライター、新聞社、今は編集と、いろいろな形で出版の仕事に関わってきた。
社会人生活30年弱の51歳にも、いよいよAIの波がやってきた。
編集の現場ではAdobeなどのソフトがどんどん技術革新され、イラストやデザイン作成までやってくれる。校正、テープ起こし、記事執筆もだ。議事録や座談会の要約までしてくれたときには驚いた。
今の会社でも若い社員がAIを推奨し出し、私は彼らに習いつつ、AIソフトの使い方を覚え始めている。
自分でテープを起こし、取材メモを基に自分の頭で考え、文字をひねり出して原稿を書いていた頃を思い起こせば、便利な時代になった。
この30年で自分が培ったものは、もういらないのだ。
「若い社員に習う」と書いたが、たいていはネットで調べればそれなりの解説記事があって、何とか自力で使えるようにはなる。
若い社員が私達ベテランに何も聞いて来ずにネット検索で済ませるように(人望の無さはまた別として)、私達もあれこれ聞かず、淡々とAIソフトの習得に努める。仕事の仕方の激変ぶりに比べ、職場は拍子抜けするほど静かである。
ネットやメール、SNSツールの普及で電話が鳴らない職場が増えたと聞くが、うちもそうだ。シーンとしている職場では電話がかけづらい。ベテランの私さえそう思うのだから、若い人はもっとだろう。
昔は同僚がどのような仕事をし、どのような進捗状況かは電話の会話から類推できたものだが、今は上司は部下が今どんな状態かを仕事ぶりから把握できず、苦労するという。
業務伝達はスラックがメインになり、私は未だに目の前にいる後輩からメッセージが届くことに慣れない。瞬時にメッセージを送り合える割には懸念・保留事項ばかり可視化して積みあがっていくだけの気がして、とてもストレスを感じる。
とにかく、会話がどんどん減っている。
職場って、もっと喜怒哀楽にまみれていなかったか。
私が出版社に新卒入社した1996年、配属された営業部には古いパソコンが1台あるきりで、エクセルも何もなかった。前年にかの「ウィンドウズ95」が発売され、パソコン・インターネットブームではあったけど、まだ職場に浸透していなかった。
営業部の仕事は飛び込みもありの、書店のルート営業。
私は編集志望だったが、この出版社は社長の方針で入社時は必ず数年、営業を経験することになっていた。営業部員は10人弱、ほとんどが20代女性だった。
経験せずに本を作るより、経験することで見えるものがある。それを編集の仕事に生かしてほしい ── 社長のこの方針は正しいと思ったが、営業という仕事はピヨピヨの新人にとって、そして元々営業トークどころか社交的ではない自分にはキツかった。入社した翌月のゴールデンウィークにはもう、一人で出張して東北を廻らされたが、新卒でなかったら辞めていたと思う。
上司は当時40代の、男の営業部長。ずんぐりしていて、目が細くて、基本仏頂面で、見た目がちょっと恐かった。私は社会人初めての上司である彼に同行して、書店営業のやり方を教わった。初日は新宿。東口の紀伊國屋を中心に、ものすごく早足の営業部長に必死に付いていった。
仏頂面の営業部長は、書店に入るやいなや満面の営業スマイルに変身する。雑談とビジネストークを切り替えつつ、書店員さんたちと丁々発止のやりとりをしていて、私はその仕事ぶりとキャラの二面性に圧倒されるばかりだった。
数軒の訪問を終えた昼過ぎ、彼が常連にしているという新宿三丁目の中華料理店に入った。疲れていたのと、仏頂面に戻った営業部長と向かい合って気詰まりで、定食の味があまりしなかった。
食後のコーヒーを飲みながら、営業部長がぶっきらぼうに聞いた。
「あなたは何で出版を選んだの?」
「本が好きだからです」
「最近はどんなの読んだ?」
「最近は南米文学とか•••」
「南米か。マルケスは読んだ?」
「はい。『百年の孤独』とか」
「おっ、そうか。俺は『族長の秋』が好きで•••」
コワモテ営業部長は『百年の孤独』で笑顔になってくれた。マルケスの話ができて、大学の授業でたまたま『百年の孤独』を読んでおいてよかったとほっとした。
部長は私の分の定食も一緒に会計してくれながら「今日の売上は、あなたの成績に付けていいから」と言った。
それで、いよいよ一人で営業することになった。
各営業部員には、都内近郊の担当路線が割り振られる。私に渡された路線は東急田園都市線・大井町線・相鉄線・池上線・東横線・横浜線・京浜東北線(大井町~関内)などだった。
この割り振りは営業部長が『民力』というデータ本を基に作ったもので、部長は「平等なエリア分けにしたから、達成ノルマも平等だからな」と言う。(※今、調べたら『民力』は朝日新聞社が1964年から出している地域データ集で、エリアマーケティングの基礎資料となるものだそう)
東京の八重洲や神田神保町など、ビッグな書店が多く売上も見込める担当エリアを振られた同期に比べ、横浜線なんかじゃそんなに売り上げが上がらない(ごめん横浜線)ことを不満に思い、営業部長に恐る恐る相談したが、聞き入れられなかった。
「平等にしたはずだから工夫しなさい」
そんなむちゃな•••。
不憫に思ってくれた2つ上の女の先輩が、渋谷エリアを譲ってくれた。
こうして、営業部長が考えたアナログなデータや、情で譲ってもらうようなやりとりで、売上成績を競わされたのだった。
ルート営業の引き継ぎは、先輩たちが一度だけ同行してくれて、あとは先輩たちのコクヨノートのメモを頼りに一人で廻った。
「5月15日 ことぶき書店二俣川店(※以下、全部仮名)吉岡店長。常備補充。『○○』平台ハケていたので追加10。新刊『○○』『○○』を案内、既刊『○○』と一緒に3点面陳展開してもらえることに」
「歴史担当斉藤さん、「るろうに剣心」がらみでフェアの話する。デザインシリーズの動きがないので料理本シリーズと入れ替え様子を見ることに。斉藤さんは『たまごっち』のファン」
こういうメモ書きを頼りに、歴史担当の斉藤さんを探して名刺交換させてもらい、たまごっちの話で口火を切ったりするのである。
「山田書房中山店の山田さんは、注文票に自分で書き入れたいタイプ。渡してもいいけど、完全に渡しちゃうと迷った末、未記入で戻されるので、指一本だけは絶対に離さないように」
「よしだブックス仕入れ担当の竹下さんは神奈川一注文が厳しい。菓子折を持って行けば口をきいてくれるとの噂。うちはそこまでしなくていいのではと思い、未挑戦」
先輩からのアドバイスは微に入り細に入り際限なく、また個々の感情や人柄を感じさせた。よしだブックスに菓子折を持たないで行ったらどういうことになるかと、よしだブックス外商部に通じる階段は地獄に通じる恐怖感で足がすくんだが、くだんの竹下さんが意外といい人で、ちゃんと注文を取れて帰ってきたときは、「よくやった!」と営業部長も先輩も我がことのように喜んでくれた。
営業部長と、渋谷を譲ってくれた先輩の間で喧嘩が始まることもあった。
営業部長は「とにかく通え。断られても通え。足を棒になるまで通い詰めれば相手も心を開いてくれる」と信じてやまない、そのまた先輩から習った昭和の根性論の営業スタイル。
先輩はそんな熱血スポ根のようなやり方は馬鹿馬鹿しいと思っていて、部長が私にこういう根性論を説いていると「そんなやり方はおかしいです」と割って入ってきた。
「これからは他社さんと連携して、書店さんにとって有用な情報を持って棚や平台を試して、成功したら他でも試す。東京の売れ筋情報を地方にも持って行く。情報を重視した、効率的な営業が必要です」
先輩はアートのセンスもあって、POPも自分で作って書店に持って行って飾ってもらったり、書店が作った棚の写真を撮らせてもらって営業会議で分析してみせたりと、確かに足を棒にして通いまくるスタイルの営業部長とは違うアプローチで営業していた。仕事観をめぐる世代の激突。二人が喧嘩になるたびに、私はオロオロするばかりだった。
私は私なりの営業スタイルを模索した。
営業部長のやり方で、来てくれたこと自体を評価してくれて注文をくれる書店も確かにあり、先輩のように棚やフェア台の演出を提案し、他社の売れ線情報も伝えつつ関係を築けるようになってきた書店もあった。
それでも、営業部長や先輩のように丁々発止の会話ができず、私にはムリとへこむばかりだった。元々、会話が苦手なもので、萎縮してペコペコしがちになっていた。都会の書店員さんはとにかく忙しいので、時にちょっとイライラしている人もいる。その中に割って入って口下手な自分の話を聞いてもらうのが重荷だった。
そんなある日、それは起こった。
今は無き渋谷某ビル某書店の担当者が変わるということで、私はすかさずその書店に向かい、店内にいた彼女に声をかけた。
「○○社の五反田と申します。ご挨拶と新刊のご案内に・・・」
「帰って下さい」
乱暴に、差し出した名刺を払われた。
何が起こったのか分からなかった。
「あの、○○(前任者)にお世話になっていました○○社の、」
「だから! 見て分かんない? 突然押し売りされたって、こっちは忙しいの!」
しっしっと追い払われ、私はあっけにとられた。
機嫌の悪い書店員は他にもいたが、押し売り扱いされたのは初めてだった。
取り付くしまがないので退散するしかない。ただ、ここは大型書店でうちの在庫も多く、先輩から代々関係を築いてきたところだったので、ここの売上を失うことは会社にとって損失だった。
日を置いてもう一度行くしかないと思ったが、あんなに攻撃的で、名刺を振り払う人の元に通い詰めて態度が変わるだろうか。なんとか関係を繋げないと、でもどうしよう・・・営業部長に何て報告しよう。
帰りの電車で泣きそうだった。そして気弱な私にはやっぱり向いてない仕事だと思った。
「その書店、切っていいから」
営業部長はすかさず言った。
「書店と版元(※出版社)は上下関係じゃないから。それが分からないところとは取引しなくていい」
横で聞いていた、その書店の前担当だった渋谷を譲ってくれた先輩も言った。
「版元営業を押し売り扱いするような人の担当の棚、見てごらんよ。情報も入らないし、たいてい荒れてるから。絶対、ぺこぺこしちゃだめ」
それでこの話はおしまいになった。私はその書店に行くのをやめた。
「営業とは取引相手と対等なのだ」「卑屈になるな」と強くたたき込まれた気がした。
そして日々は続き、相変わらず心は消耗していたけど、私はいろんな書店の棚を観察するようにした。
書店員の哲学・意気込みを感じる棚、整理できてなくてカバーも古い棚、いろいろあった。私達は自社の本を売ってもらいたい。書店は売れる本を置きたい。「本を売りたい」ことで両者の思惑は一致している。そのためには協力関係が必要だ。
書店営業にできることは一方的なお願いでなく、情報も運んでくること。ただし情報だけ持ってきても人間関係が築けていなければ話は聞いてもらえない。そのさじ加減が大切で、決して「お願いします」と頼み込むことではない。つまり営業部長と先輩のやり方は両方、大事なのだ。
そう腹に落ちてから、私はこの書店が何に力を入れているかを観察し、会話に取り入れるようにした。「今日はうまくいったな」と思えることが少しだけど、増えてきた。
あの頃は、「上司(先輩)に習う」ことでしか仕事を覚えられなかった。
先輩を真似し、感謝し、怒られ、褒められ、目の前で喧嘩され、泣かれ、書店員さんほか毎日大量の人と会い、ときには名刺を突き返され、毎日が人の喜怒哀楽の中で揉まれていた。どんな喜怒哀楽が展開されていようと、私は怒ったり笑っている先輩に聞くしかなかったし、先輩もそれに応えた。
何だろう、30年も前のことなのに、あの頃、自分にかけてもらった営業部長や先輩の言葉、理不尽に耐えた日々のことは、去年やおととしのことより濃厚に覚えている。
「昔の職場は会話が多くて、今が少ない」は私一人の経験からの思い込みであって、たまたまかもしれない。だけど、あの頃の上司や先輩の歳をとうに超えた私は、自分が30年培ってきた仕事上の信念があっても、それを後輩に伝えることができない。
氷河期世代の不幸は、初任給を新卒に抜かれたことや給料が上がっていないことよりも、自分たちが30年培ったスキルが技術革新でAIに抜かれ、教えるどころか逆に教わる立場となり、その無念さをグッと呑み込んで我慢していることを、目の前の若い人に分かってもらえないことそのものではないだろうか。
ただ、私だって、例えば祖父や祖母の世代が抱えていた理不尽さを理解しようと努めたことはなかった。氷河期世代に関係なく、こういう虚しさは歳を重ねれば常にあるもので、その諦念を受け入れ、自分なりに納得させていくのが人の道なのかもしれない。
相変わらず静かな職場で、後輩にZOOMのトークルームの分割の仕方を習いながら今、あの濃厚だった日々を思い返している。
営業部長はずいぶん前に転職先の出版社を定年退職し、フェイスブックを拝見するにお孫さんを自慢したりとお元気そうである。
そして渋谷を譲ってくれた先輩とは、互いの人生の節目節目の喜怒哀楽を共有しつつ30年、今でも呑み友である。