ファンタジーの受容と『ゴブリンスレイヤー』に関するメモ:創作のための戦訓講義18


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個人見解

作品について

 ゴブリンスレイヤーはTRPGの世界観をベースにしながら、そこでドラゴンや魔王という強大な敵と戦うのではなく、ゴブリンを倒すことだけに執着する青年の物語だ。彼の特徴は神(GM)が振るさいころの目次第では最弱の怪物であるゴブリンにすら殺されうるというこの世界で、神のダイスに運命を委ねず、あらゆる手段をもって確実にゴブリンを排除しようとするところだ。

 この主人公の戦い方がTRPGでいうところのマンチキンと揶揄されるスタイルに近いという指摘は従前からなされていた。ルールの隙や「常識的に考えればこう処理するよね明言してないけど」という点を自分の都合がいいように解釈して有利なプレイングを進めようとするこのスタイルは、現実でテーブルを囲んで他プレイヤーと連携してゲームを進めるTRPGにおいては特に忌避されやすい。

 この点はアニメでも象徴的に描写されている。ゴブリンスレイヤーがひとりでゲームを進めていたところに新米プレイヤーの女神官が合流。だが相変わらずゴブリン狩りに血道を上げる中、別のベテランプレイヤーである妖精弓手らが加わりゲームの幅が広がっていく。ところがゴブリンスレイヤーのプレイングがあまりにあんまりなので妖精弓手から批判が飛ぶ、という流れは物語世界と現実のTRPGの在り方をリンクさせているようだ。

ゴブスレは硬派か?

 『ゴブリンスレイヤー』が硬派なファンタジー作品かどうかという点だが、ファンタジージャンル全体を俯瞰した場合の評価はさておき、近年の作品群の中では間違いなく硬派の側に属する作品だと言えるだろう。なにせ近年のファンタジーはなろう系Web作品群とほぼイコールなので、あれらと比較すれば本作が硬派の側に分類されるには違いないのだ。

 この辺はファンタジージャンル全体の受容が、なろう系異世界ファンタジーの台頭によって大きくその性質を変えているかもしれない、という可能性を導く。なろう系ファンタジーの要素であるテレビゲーム的世界観がエッセンスではなくかなりダイレクトに反映されている点(ステータスオープンとか)や、大量生産される中で特定のテンプレートが完成しそれが伝播していく様子などは従来のジャンル形成とはまた異なる部分があるだろう。

 この辺は黎明期の『オーバーロード』などともまた異なるというか、ゲーム的概念の流入の手つきがだいぶ違う感じもする。TRPGの世界観をゴブリンスレイヤー自身にとっては現実であるように導入したものと、ゲーム世界と転生先の差異が物語の根幹にかかわる世界と、ゲーム的要素の導入はもはや前提となった世界。個人的には『デルトラクエスト』で育った人間なのでファンタジーは『ゴブリンスレイヤー』くらいのシビアさの方が落ち着けるのだが。

ルールへの認識

 だが個人的にはむしろ興味深いのは、ゴブリンスレイヤーという人物への印象の差異だろう。TRPG業界に疎い私でもなんとなく「こいつは迷惑プレイヤーだろうな」と思うところはあったのだが、彼の在り方がシンプルにカッコいいという認識になる客層も存在するようだ。いや私もゴブスレのことをハードボイルドとか評したけども。カッコよさと表裏一体の問題児的性質を持ち合わせているのはむしろハードボイルドの文脈でもあるだろうし。

 この辺はまずTRPGという「リアルでプレイヤー同士が顔を合わせる」形態のゲームからオンラインゲームへの変遷の影響もありそうだ。GM含めひとつのゲームを協力して成立させるTRPGと、既に用意されたゲームで協力し対戦しプレイする現在の電子ゲームではその性質が大きく違う。特に昨今はオンラインゲームの大半が対戦型であろうことも関係しそうだ。

 とどのつまり相手を出し抜くことに一定のインセンティブが発生しやすいのが今のプレイ環境なわけで、その中でルールの裏をかくゴブスレの在り方は賢くてカッコいいということになるのかもしれない。

 またこれは同時に、社会的な様相の変化を見るきっかけにもなるかもしれない。先日、辺野古新基地に関する国と沖縄県で起きていた裁判における、一連の不可思議な流れを見てみると分かりやすい。

 つまり行政不服審査法という、「行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為に関し、国民が簡易迅速かつ公正な手続の下で広く行政庁に対する不服申立てをすることができるための制度」を行政機関である沖縄防衛局が利用して国土交通省に審査を請求。当然身内の行政である沖縄防衛局に有利な結果が出て、最高裁でもその審査結果を重視して判決が下されたということだ。

 国民が行政に、つまり権力的に劣位に置かれる側が優位の側へ訴えるための制度を権力的に優位なものが劣位なものを追い込むために利用している。だが制度には行政が使用してはいけないという記述はないらしい。そりゃあ、国民や市民団体が利用することを前提とした制度でありまさか行政が使うなどと夢にも思っていないのだからそんな記述がないのは当然だが。

 当然こんなものは横暴以外の何物でもないが、沖縄県側をルールを破る者であるかのように言い立てる馬鹿は多い。つまり現在はルールの意味や意義を理解せず、「ルールならば守るべき」だと考えている人間が相応の数いるだろうということだ。

 ルールそのものへの批判を欠く中で、ルールを守れと言う規範意識だけが無根拠に膨らんだ世情での賢い生き方とは何か。不合理なルールに従わない、従えないものを叩く側に回ることもそのひとつだ。同時に権力者側からすれば、ルールの意義への疑義が存在しないのだから、市民が利用するための制度を、利用される側であるはずの権力者が利用しても批判されないと推測できるわけだ。

 ゴブリンスレイヤーというマンチキン、ルールがゲームマスターと他プレイヤーとともにゲームそのものをみんなで作り上げるためのものだと理解せず、自分が有利になるための抜け道だけを探すプレイングが「迷惑」よりも「カッコいい」と評価される状態は、こうした世情と不可分ではない……というのは牽強付会だろうか。突飛すぎると思われるかもしれないが、しかし作品がどれだけフィクションでも、それを受け取る我々が現実の存在である以上、現実の状況は受容に影響を及ぼす。チート能力で無双が当たり前のなろう系ファンタジーの台頭で『ゴブリンスレイヤー』がどちらかと言えば硬派寄りになった。権威主義的で新自由主義的なルール無批判の空気がマンチキンの欠点よりも美点を強く評価する土壌を作った。このふたつの分析は程度の差こそあれ、同質の論理を用いて作品と現実を繋いだものという点ではイコールなのだ。

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