『ゴールデンカムイ』作者はマイノリティをテーマにした作品をどう考えているのか:創作のための戦訓講義51


事例概要

発端

上記ツイートの画像

※『ゴールデンカムイ』実写映画のキャスティングに関して、作者の野田サトルの発言。

※コメントの引用先は上記記事と思われる。

明らかに問題がある

※アイヌルーツの人間をアイヌ系の登場人物の演者に当てることについての指摘。ここ最近は演技の世界全般でマイノリティの役をマイノリティ自身が演じることが重視されているという流れに関連して。

※野田サトルは「適材適所」と言っているが、差別によく用いられるレトリックである。

※「アイヌルーツの方々というのは、役者業ではなく、工芸家として世に出ている方が圧倒的に多いので」というのもステレオタイプの温存に過ぎない。

マイノリティの演者は確保できるのか

※アイヌルーツの演者は既存の演者から探す必要はない。

※意外といる。特に本作のようなマイノリティの文化が中心となる作品では一定程度探す必要があるだろう。

※いないなら「いない」という事実自体に目を向ける必要がある。

他にも影響が

※マイノリティが中心となる作品のファンがマイノリティの演者を起用することの社会問題をまるで理解していないのは怖くない? という話。

※自分たちに好意的なマイノリティしか見えてない状態になっていないか、という危惧。

個人見解

 マイノリティの役をマイノリティ自身が演じることにはいくつかの意味がある。ひとつはシンプルに雇用の機会均等の側面だ。もとよりマイノリティは種々の事情から華やかな職務に就きづらい部分がある。その上で、マイノリティ自身と同じ属性の役すらマジョリティに取られていたら、いつまでも仕事にありつくことはできない。

 ひとつはマイノリティの演技をマジョリティがすることは、マジョリティが持つ勝手なマイノリティ像を押し付ける結果になるかもしれないということだ。白人が黒人に抱くような戯画化、低脳化かもしれないし、それこそ倭人がアイヌに抱くような神聖視かもしれないが、いずれにせよマジョリティが制作し、マジョリティが演じ、マジョリティが監督する作品ではマイノリティのステレオタイプを修正する暇がない。

 そもそも「マイノリティの役をマイノリティに」というのはそうした雇用機会や作品がマイノリティのイメージに及ぼす影響に関する問題意識に端を発しているのであって、誰も映画が演者だけで構成されているなどと思ってはいない。あくまで表に出る演技という部分に関しても問題提起だ。それを無視して「一歩深い考えで」とはなかなか片腹痛い。というか、きらびやかで目立ちやすい表の世界をマジョリティが独占し、マイノリティは「適材適所だから」と裏方に押しやるのって普通にダメなんじゃ……。

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