脚本家という肩書と責任:創作のための戦訓講義55
事例概要
発端
※漫画原作ドラマ『セクシー田中さん』終盤の展開で問題が立ち上がる。
※ドラマ化の際に原作改変を行わないと取り決めていたにも関わらず変更が多く生じ、結果的に原作者自身が最終話のシナリオを執筆。脚本家がそのことを原作者へ悪印象を与える形でSNSで記述したため、原作者自身がSNSで釈明に追われる結果に。
※ついに原作者の死亡という事態に発展。
※調査の必要性が叫ばれるほどの事態に。
反応
※脚本家は前科あり。個人的に知っているドラマは『ミステリと言う勿れ』だけだが酷かったのを覚えている。
※ていうかレビューに書いてた。プロデューサーの問題にも触れているね。
※今回の主題はここ。問題の所在は多岐に渡るが、その中で脚本家の責任はあるのかという話。
当時の私見1
当時の私見2
当時の私見3
個人見解
今回のドラマの事態はまず第一に、原作者に対しドラマ化の許可を得るうえで約束したことを守らなかったという契約上、コンプライアンス上の問題が生じている。ただこれはあまりに明白な制作側の落ち度なので、ここでいちいち取り上げるほど込み入ってもいない。
脚本家個人の反応や、それに対する応酬もここでは主題ではない。ネット上では個人の批判が、それ自体は妥当かつ穏当でも数が集まれば圧力として対象にストレスをかけてしまう構図がある。とはいえそれはネット上の宿痾であり、それ自体が問題だとしても、ここで論じる話題ではない。
今回の問題はまさに、脚本家が原作改変に負うべき責任についてである。今回の問題は原作者に予め提示されていた条件が守られなかったわけだが、制作陣の一員であり、原作者よりテレビ局の力学に詳しいだろう脚本家がこれを静止する責任が一定程度あったのではないか。
上記に引用したポストにある通り、この脚本家が制作上層部の思惑通りの改変をするからこそ重宝されているのではないか、という考え方もできる。実際『ミステリと言う勿れ』では手垢の付いた改変がなされていたわけだし、人気原作をそのエッセンスを崩して「テレビドラマ風」に改変するのが主な仕事だっただろうと考えられるわけだ。
無論、コンプライアンス違反の主たる犯人はプロデューサーなどだろう。脚本家の立場では知る由もなかったということもありうる。だが原作の内容からすれば考え難い改変を求められたとき、原作者の著作物を保護する観点、同じ創作者としての職業上の責任は発生しないのか。
あるいは脚本家はあくまで上から指示された改変を行うだけだとする擁護もあったが、それならば「脚本家」という大層な肩書が意味するものはなにか。脚本家と名乗る以上、その肩書に期待されるだけの働きと責任を想定するのは妥当だ。それこそ日本のドラマにおいて脚本家はお上の指示に従うしかできないか弱い生き物であることが常態化しているというのなら話は別だが、残念ながらそんな話は聞かないし、上のポストに示したように脚本家として素晴らしいシナリオを書けば評価されうるわけだ。
テレビ局、制作現場の力学を外部の人間が把握するのは困難だ。ならば「内部事情を知らないので批判できない」のかと言えばそうではない。それこそ業界の人間に内部の不透明さを盾に言い逃れをさせないために、ある程度妥当な推測で批判を展開する、ある種の空中戦が求められることはあるだろう。脚本家という肩書から想定される職能と責務を果たしていないと批判することは、内部を透視できずとも妥当だし可能だ。そうしなければ、業界の人間は「脚本家」という単語が持つイメージにフリーライドし自身の印象を作る一方、論難に対しては内部の不透明さを利用して回避するということを延々と許すことになるからだ。
今回の事例はまさにそうした内部の不透明さと内輪ノリにかこつけた事例でもあるように見えるわけだし、このあたりの空中戦の理屈はもう少し整理しておきたいところでもある。