「カルトグラフィ」 湯澤規子『「おふくろの味」幻想』:創作のためのボキャブラ講義19
本日のテーマ
題材
「おふくろの味」というキーワードをめぐって、これまでどのような認識がなされ、その世界を表現する認識のレシピがつくられてきたのだろうか。そして、それは誰の、どのような意図によるものなのだろうか。このような「おふくろの味」のカルトグラフィをひもとく時、「主観」というファクターを除いては決して解けない謎が散在していることに気づかされる。
(本書22ページ)
言ってみれば、「おふくろ的存在」となる人物自身がおふくろの味を伝え、啓蒙していくチャネルが加わったというのがこの時期の特徴である。
(本書45ページ)
意味
カルトグラフィ
地理学において、ある主題に基づいた地図を作ること。
チャネル
英語の「channel」に由来し、情報などの流入経路のこと。
解説
作品概要
「おふくろの味」という漠然としたイメージが、自然発生したものではなく社会的に作られたものであることはおおよそ理解できるところだ。高度経済成長期から特に日本では性的役割分担のステレオタイプ的家族像が強く押し出され、現在の保守が言う「伝統的な家族観」が形成された。「おふくろの味」はそうした形成された家族像がもたらす料理におけるイメージの代名詞だと言えるかもしれない。
しかしその前後……つまり戦後間もなくの集団就職期から、現在という一連の流れの中で「おふくろの味」という幻想がどのように形成され、そして今の立場になったのかという連続的な経緯を正確に把握する人は多くない。大抵、「おふくろの味」が持つジェンダーステレオタイプ的なイメージを批判する際に、その前後はさほど重要ではないからだ。その点を明確に追ったのが本書である。
新書なので具体的なところは読んでもらった方が早いが、簡単に言えば集団就職による地方から都会への進出や、観光業の発展に伴う地域の味の再発見がまずある。高度経済成長期においても単なるステレオタイプというだけでなく、核家族化と家電の充実によるこれまでと異なる料理環境に馴染むべく、女性に向けてメディアがレシピを発進したことなどが幻想の醸成に大きな寄与をしていると指摘されている。そして現在、さらに進む食の個別化と、強烈な個性を持つ料理研究家の出現により「おふくろの味」はその幻想を攪乱させているという。
カルトグラフィ
あくまで本書の序文において引き合いに出されたもので、本書ではカルトグラフィそのものが扱われているわけではない。しかし集団就職などがきっかけで、今まで食べていた何気ないものが地域と家庭に強烈に根差したものであることを都市において再発見したという指摘は、「おふくろの味」にジェンダーステレオタイプ以前に地理的な要素が存在することを意味している。
本書において「おふくろの味」となる大元の郷土料理、地域と家庭の味は女性だけが担っていたのではなく、家族総出で作られていたものだと指摘されている。地方においては家業である農業などの合間に、手すきの者が食事の支度をすることが多かったからだ。それが女性性と結びつく要因はいくつかあるが、地域資源としてふるさとの味が再発見される過程で、女性を中心とする集団や組織が主体となっていたことが大きいという。
チャネル
また同時に、おふくろの味を伝達するメディアが自然と女性をその対象としていたことも指摘されている。高度成長期における家族や家庭の変化に伴い、「おふくろの味」の立ち位置が女性の家事労働と結びつき始めた。そこには、調理環境の変化に女性が対応するための苦慮もうかがえる。
簡単な話、核家族世帯では女性は実母や姑から料理の手ほどきを受けることができない。また仮に実母などがいても、彼女たちは電子レンジに冷蔵庫と言った新しい家電を使いこなすことができないし、オムライスなどの新しい料理を教えることもできない。そこでレシピ本は「娘に料理を教えられない祖母」と「実母に料理について聞けない娘」の両方をサポートするためのレシピ本が多く誕生する。こうしたメディアという情報の流入経路、つまりチャネルの存在はおふくろの味という幻想を理解する上で重要だった。
こうした経緯の中、ある種のカリスマとも言える料理研究家が生まれていく。家族形態は刻々と変化し、共働きが増え女性の労働時間は増えるが火事に費やす時間は減らない。料理がある種の重荷になり始めたころ、家族のためではなく自分が美味しいものを食べるためにこそ料理をするというスタンスの料理研究家が生まれた。それが小林カツ代であり、その流れで現在の栗原はるみへと繋がっていく。その中で家族のためにちゃんとした料理を作るという母の呪縛は解かれ、「おふくろの味」という幻想は徐々に解体されつつあるという。
情報
作品情報
湯澤規子『「おふくろの味」幻想 誰が郷愁の味をつくったのか』(2023年1月 光文社)