米澤穂信『冬期限定ボンボンショコラ事件』に関連する思索のきっかけ:創作のための戦訓講義81


事例概要

なぜ謎を解くのか

※なぜミステリは謎を解くのか。探偵は他人の人生に首を突っ込むのか。

※『冬期限定ボンボンショコラ事件』および〈小市民〉シリーズのひとつのテーマが、探偵役である小鳩くんの解きたがりの性質にある。

※それに関連する事柄として。漫画を読んでいないので分からないが。

探偵の課題

※〈小市民〉シリーズは2000年代初頭の作品なので、テーマ設定もその時代に依る部分がある。

個人見解

 なぜ探偵は謎を解くのか。謎……つまり他人の人生に深く根差す事象を解き明かすのか。真実を明かすといえば聞こえはいいが、必ずしも謎を持つ人間がその解き明かしを求めているとは限らない。謎が殺人事件で、探偵役が刑事なら仕事で済むが、日常に横たわるちょっとした不思議で、探偵役が一般人ならばわざわざ解決する必要はあるのか。その権限はあるのか。

 探偵の無謬性は既にジャンル内で多く批判されている。それをいちいち取り上げはしないが、少なくとも現代とそれ以前で「無謬性」の意味合いが少し違うのではないかと考えた。つまりこれまでは探偵の無謬性とは「謎を解く行為」についてであり、前提として探偵は真実をきちんと明かすものだということは疑われていなかった。現在ではそもそも、探偵の明かした真実が本当に真実か、を疑問視する意味での「探偵の無謬性」を提唱してもいいかもしれない。

 世の中にはパソコンかスマホの画面とにらめっこしているだけで真実を解き明かした気になっている人物が多い。彼らは「謎を解く行為」の持つ問題から目をそらすという意味で従来的な「探偵の無謬性」に乗っているが、同時にそもそも彼らのそれは真実ではない、という重大な問題を抱えているわけだ。

 〈小市民〉シリーズで小鳩くんが解きたがりの性分を押さえて小市民たろうとしたのはまさに、従来的な探偵の無謬性への批判という、ファンダムの視座がメタ的には存在している。一方、その中で確かに「解き明かしたものは真実である」という点は前提として存在している。2000年代初頭の作品であり、長い年月を経て終幕を迎えた作品を経由したからこそ実感する、探偵の課題の変遷だ。

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