「アメリカン・ニューシネマ」の一般論とダーティハリー:創作のための戦訓講義103


事例概要

発端

※北村氏の映画批評記事。『ダーティハリー』について書かれている。

※自称にわかが「さえぼうは適当を言っているぞ!」と言いながら適当を発信。

※当然の反論が出る。

※内容については読んでもらったほうが早い。私はアメリカン・ニューシネマ自体を知らないので……。

※しいて要約するならにわかが「俺はたくさん映画を見てアメリカン・ニューシネマとはこういうものだと考えた」と語るのに対し、北村氏は一般論としてアメリカン・ニューシネマがどういうものと定義され批評されていたかを取り上げている。

※アメリカン・ニューシネマについての一般的な把握がおかしいというにわかに対し、北村氏の方が明確な典拠に基づき一般論としてのアメリカン・ニューシネマを鮮明化させている構図。

なぜ燃える?

※北村氏は女性、研究者、批評家、フェミニスト、オープンレターとネットのごろつきが敵視する要素盛り沢山なので炎上した感じ。

※他人に対して「共産党!」と呼ぶのと同じで意味のある鳴き声ではない。北村氏をフェミニストと置くかどうか、オープンレターと何か関係があったかは詳述しても良かったのだが……ここでは実際に関連があるかどうかは意味がないので書かないことにする。

※映画秘宝関連のサブカルの空気や流れも関係していそうだが、私はその辺も詳しくはないので……。

※後述する町山のことを加味するとかなり関係ありそうなので、また調べてみてもいいだろう。

延焼

※本筋の議論から離れていく。

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッドと呼ばれます)という潮流がありました。何らかの体制に抑圧されている若者たちが、なんとかして現状を打破しようする反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられます。あとでお話すると思いますが、私はニュー・シネマ自体があんまり好きではありません。
『ダーティハリー』もこのニュー・シネマの影響下にある警察映画だと思うんですが……でもニュー・シネマ的なのかどうかがよくわかりませんでした。というのも、この映画は、アメリカで民主主義が機能していないためにハリーのような法を守らない刑事が活躍してしまう、みたいな話だと思うのですが、これを風刺として描いているのか、それともハリーのことをかっこいい警察だと肯定的に捉えているのか、いまいちよくわからなかったんです。そこがすごく引っかかったんですよね。

上記記事引用

※『ダーティハリー』とアメリカン・ニューシネマの関連について大元ではこう語っている。

※記事を読まない馬鹿が続々と出てくる。

原因はこいつか

※町山のいっちょ噛みで間違った論点が拡散されているのだろうか。

※なんかちょくちょく絡んでいるらしい。

※実際今回の件も直接は言及せず、分離した話題のように扱っている。

ダーティハリー

駄目な刑事

※個人的にはこういう認識。

キャラハン刑事という男

※ダーティハリーが好きな人もハリーの刑事としての職業倫理などに問題点を感じることはあるようだ。

※それはそれとしてダーティハリーは好きだしポンコツ刑事と呼ばれるとかちんとも来る。でも事実だから上手く反論できねえ。映画オタクのサガ。

※北村氏の警察不信(警察は規則を守らない)とハリーの警察不信(ルールを守っていたら被害者を守れない)という差。

※天に采配を任せる「何発入っているか」という演出。

個人見解1

個人見解2


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