創作ジャンルの自浄作用は「自」じゃないところに届かないかもしれない:創作のための戦訓講義30


事例概要

発端

※私人逮捕系配信者について、創作における正義のヒーローの描き方が変わるかどうかという話。

※既にアメコミでも特撮でも正義のヒーローに触発され自警団的に活動する人たちの問題は描かれており、今更。しいて言うならそうした彼らの描写が今後は配信者に寄る形か?(まあそれだって配信者が出てきた時点で私人逮捕系以前からいたと思うが)

個人的気づき

※私人逮捕系と正義のヒーロー系ジャンルから飛躍し、創作における自浄作用の話へ。

※暇空については以下の記事の通り。

個人見解

 ヒーローものにおける正義の在り方と自警団的「正義を暴力を振るうための建前にする人たち」の問題。ヒーロー気取りでやっていることは悪人という彼らの存在は、確かにヒーローものにおいて描かれてきた正義のヒーローの無謬性によって生まれたものだ。

 ゆえにヒーロージャンルではこうした自警団的存在について批判的に描いてきた。あるいは現実問題は関係なくとも、ジャンル的思索の結果必然的にそうした描写は出てくるのだろうが。ともあれある種の「自浄作用」として、正義に対する批判は常になされてきた。

 だがジャンル内で自浄作用を働かせても、今回のように私人逮捕系配信者のような、触発された存在を打ち消すことは難しい。当初私はこれを「作品の表面だけ、あるいは表面すら無視して都合のいいように摂取する読者という存在」の問題と認識していた。まあそれは実際あって、事実作品内で否定される悪役の台詞を真理のように扱う馬鹿は枚挙にいとまがないことだし。

 だがここで気づいたのは、そもそも自浄作用を働かせたところで問題のある連中は「自」ではないから意味がないという話だ。正義のヒーロー気取りの私人逮捕系配信者、あるいは自分を名探偵と思い込む暇空のような存在は、そもそもジャンル外の存在だ。

 ではジャンルに罪はないという、これは外部との切り離しと責任転嫁ではない。創作の読者はジャンル外にも存在するという話であり、それらに対するアプローチは「自浄作用」ではないという話だ。対応策の違い。ジャンル内で創作と批評を持っていくら批判をしても、ジャンル外の「自」ではない人間には届かない。かといって「自」ではないからジャンルに責任がないというわけでもなく、「自」ではない彼らにアプローチを仕掛ける必要がある。

戦訓

 ではジャンル外の人間にアプローチする方法は、と問われればそれは時と場合による。ただし、ここまで考えれば分かる通り、一部の人間が言う「芸術家は自身が専門とする芸術によって主張を表現すべし」という戯言が実に戯言だということはよく分かるだろう。

 そのジャンルがもたらした問題はそのジャンルの表現だけで解決できるわけではない。なぜなら問題ある者たちは「自」以外の外にも存在しうるのだから。暇空はおそらくミステリなど読んでいないだろうが、それでもミステリが描く探偵像に影響を受けてセルフイメージに探偵を付与している。そんな奴相手にミステリ分野で批判しても届くはずはない。

 時に直截な意見の表明も重要だという話である。

いいなと思ったら応援しよう!