相模原障碍者福祉施設の事件から:創作のための時事勉強会12
※注意
本記事は時事的問題について、後で振り返るためにメディアの取材や周囲の反応を備忘録的にまとめたものです。その性質上、まとめた記事に誤情報や不鮮明な記述が散見される場合があります。閲覧の際にはその点をご留意ください。
概要
事件とは
2016年7月26日に相模原市の障碍者福祉施設「津久井やまゆり園」で発生した連続殺傷事件。
犯人の動機は障碍者に対する差別的なものであったとされている。
優生思想
生物の遺伝や進化の法則を持って、劣勢悪質な遺伝子を淘汰し優良なものを保存しようという考え方。これに沿えば、障碍者は先天的困難を発生しうる遺伝子を持っていることになるので、子どもを作るべきではないということになる。
この理屈はあらゆる点で誤りである。まず先天的な困難を発生させる遺伝子を人間が持っていたとして、その遺伝子が必ず発現し困難を生じさせると決まっているわけではない。またいわゆる「健常者」もある程度はこうした遺伝子を持っており、子どもを作った場合発現することがある。
そもそも優生思想が忌避する「困難」はきわめて曖昧で、歴史上、過去には困難と認識されなかったものが現在では困難と認識されるという可能性もある。また先天的な要因を排したところで後天的に困難を抱えるケースも十分あるため、不可能な遺伝子の排除を推し進めるよりは困難を抱えた人々を受け入れられる社会を作る方が合理的である。
そして第一に、人が対等であるはずの他人を「生きていいか、子孫を残していいか」などと価値判断する道理はどこにもない。
優生思想バンザイな人々
これらのツイートが端的に示す誤謬は、困難を抱えた障碍者を家族や個人が抱えなければならないわけではないという点である。現在の日本では家族単位で障碍者に限らず老人や病人を家庭で抱え込ませることで問題を解決させようという傾向があり(社会福祉の削減はまさにそれである)、その流れに乗ってしまっている誤謬。
障碍者に限らない話だが、家族だからといって面倒を見なければならない道理はない。対等な兄弟ならば言うに及ばず、仮にその子を産んだ親だったとしても、不可能であれば家庭ごと破綻する前に第三者へ助力を請えるようにするべきである。
「優生思想を許さない」とはつまり、社会全体であらゆる困難を抱えた人々を受け入れることで負担を互いに分担し合うことを目的としている。決して「優生思想はいけないので問題のあるやつをお前が抱え込め」というものではないし、ましてや優生思想に反対している人間が個人で困難を抱えた人を背負わされるいわれもないのである。
社会とはまさに、個人や少数の集団では抱えきれない困難を解決するためにこそより大きな連帯として存在するのである。優生思想とは、本来なら支え合うことで問題解決のために利用できる社会集団のパワーを、むしろ排除するために利用することで自身の攻撃性を満たすものであると言える。
参考資料
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