『地雷グリコ』漫画版と西尾維新、そして頭脳戦とデスゲーム:創作のための戦訓講義119
『地雷グリコ』コミカライズ
コミカライズ開始
※『地雷グリコ』コミカライズ開始。学園祭での人気出店スペースである屋上を巡って高校生たちがゲームをする物語。
※原作は青崎有吾、漫画版は『めだかボックス』の漫画担当者だった暁月あきら。
頭脳戦漫画っぽさ
※『嘘喰い』や『ジャンケットバンク』といった先行作品を通過した本作らしいコミカライズの要素。
めだかボックスっぽさ
※暁月先生の作風が想定よりもがっつり『めだかボックス』の「西尾維新らしさ」を構成していた要素だったという発見。
ジョジョのパロディ
※『地雷グリコ』じゃんけんシーンの飛翔演出はジョジョ4部のパロディ。
※ジャンプ作家でジョジョで育った人なら当然そう書く。
人の死なない頭脳戦
広告の謳い文句
※「誰も死なない頭脳戦」と銘打たれた広告のポスト。
頭脳戦=デスゲーム?
個人見解補足
「人が死なないミステリ」という文言があるように、特定のジャンルにおいては人が死ぬ、血生臭さがあるのがデフォルトで、ゆえにそれらの要素が薄くある種のハードルが取り払われた状態が売りになることがある。今回の『地雷グリコ』コミカライズにおける「誰も死なない頭脳戦!」というコピーもそうした側面があるだろう。
しかし通常、「頭脳戦」それ単体には人の生き死にを明確化する要素はない。いわばフラットな状態だ。ただこれは単語単位での発想とも取れ、例えば「ミステリ」は単語としては「謎」という意味だが物語ジャンルとしては「主として殺人事件の真相を追う物語」と、人死を前提にした定義付けができるだろう。
物語において「頭脳戦」が繰り広げられる時、それは大抵お互いの生命がかかったものになりがちだ。命そのものを取り合うこともあるし、そうでなくとも負ければ実質死んだようなペナルティを課せられることも多いだろう。そういう意味でこのコピーで用いられる「頭脳戦」とは額面通りの「頭を使った戦い」という意味ではなく、ジャンルとして生死のかかった知恵比べを意味していると考えるのが妥当だろう。ゆえに『地雷グリコ』では一般的に生命がかかる頭脳戦とは違い、そこまで深刻なものではないという目配せとして「誰も死なない」という文言がつくわけだ。
そして大抵の場合、頭脳戦と呼ばれる物語はデスゲームかそれに類するジャンルに終着しがちだというのも大きい。特に漫画ではその傾向もあるだろう。最もデスゲームも頭を使うコンゲームスタイルのものと、どちらかといえばサバイバルホラー、パニックホラーの類もあるため「頭脳戦」と一括りにするのも適切ではないのだが。