『本物』へのこだわり
まだ小さい頃、近所に同じ年の女の子がいて、いつも一緒に遊ばせてもらっていた。
彼女のお父さんは公務員で、その家にはアップライトのピアノがあり、先生が訪問してピアノ教室も開かれているような家だった。
彼女は、流行のおもちゃはだいたい持っていて、そのうちのひとつが『リカちゃん人形』だった。
当時、雑誌の付録に紙の着せ替え人形が付いていて(もちろん平面)、着せ替え遊びが大好きだった私は、少し洋風な顔立ちの、素敵な洋服を着たその人形が、とても羨ましかったものだ。
リカちゃん人形が結構広まってきた頃、私は両親から、誕生日か何かのプレゼントで似たようなお人形をもらった。
当時、売れっ子だった女性歌手をモチーフにしたもので、私はそれを見た時、「この人の人形もあるんだ」と思ったくらい、一般的ではなかった。
両親がなぜ、リカちゃん人形ではなく、その女性歌手の人形を選んだのか、理由は聞いたことがないが、多分、価格の都合だったのでは、と思う。
本当に同じような人形だったのに、彼女のリカちゃんの服を借りて着せようとしても、うまく着せることができなかったような記憶が朧げにあり、それ以来、一緒に遊ぶことはあまりなかった。
ひとりで、母が縫ってくれた洋服を着せ替えては遊んでいたが、結局、その女性歌手の人形はあまり気に入らないまま、おもちゃ箱の隅に入っていた。
どうしてその人形が気に入らなかったのか、それは「本物じゃない」という気持ちだ。
彼女とその人形を使って一緒に遊ぶことが少なかった理由も、何となく本物のリカちゃん人形と比較されるのが嫌だったように思う。
当時は、そのことを深く考えていなかったが、今思えば、私の中にはそこのところは大きな違いだったのだ。
「本物か、そうじゃないか」ということについて、私自身は結構なこだわりを持っていると思う。
それは、例えば有名ブランドのものか、偽物か、というようなものではなく、もっと本質的なものだ。
仮に物であれば、その物づくりについて、作る側の明確なコンセプト(意思)の元に、丁寧に、使う人の立場に立って作られたもの、というようなイメージであり、そういった意思が伝わってくるもの、とでも言おうか。
そしてそれは物だけでなく、社会のあらゆること、例えば提供されるサービスや、事業、組織のあり方についても『本物』あるいは『その道のプロ』を求める傾向があると自己認識している。
キャリアコンサルタントの資格取得のため勉強していたとき、この「大事にしたいもの」=『価値観』が、その人の物の見方や考え方に大きく関わる、と知り、自分の中を掘り下げた時に、何度も『本物』という言葉が浮かんできた。
何か物事を選択するとき、めざすべき姿をイメージするとき、私の中で無意識のうちに『本物であれ』という思いが働いている。
そして、自分の提供するサービスが『本物』=『プロの仕事』でありたい、と強く思っている。