季節の果物
我が家では、仕事柄、妻の方が帰ってくるのが遅いことが多い。そういうとき、妻はしばしば、果物を買って帰ってくる。私は妻が帰る前に簡単に夕飯を済ませているのだが、妻と一緒になってその果物を食べ、録画したドラマを観る。その時々の旬の果物はやっぱり美味しい。
私の実家ではあまり果物を夜に食べることがなかったので、この習慣は妻と暮らし始めてからのものである。
なので、私はカネコアヤノの「季節の果物」という曲を聴くと、妻のことを思い出す。
「優しくいたい
海にはなりたくない
全てへ捧ぐ愛はない
あなたと季節の果物を
分け合う愛から」
初めてこのサビを聴いたとき私はちょっとびっくりした。「海のようになりたい」という詩ならすんなり分かるし、しばしば聞いたことのある表現だが、その真逆のことを言っていたのだ。
「海」というのは、「何でも受け入れる大きな心」の比喩として用いられ、理想的な人間像や目指すべき姿として語られることが多い。では何故、カネコアヤノは「優しくいたい」とは言いつつ、「海にはなりたくない」と言っているのか私なりに考えてみた。
きっとカネコアヤノは人間の不完全なところや歪なところも「人間味」であり「その人らしさ」でもあると肯定的に考えているのではないだろうか。そう思うと誰もが「海」のように「全てが素晴らしく、全てを愛してます」と言うようなキャラだと面白くないし、逆に魅力的ではなくなってしまうと思ったのかもしれない。
それでも控えめに「海にはなれない」ぐらいにしてしまいそうだが、「海にはなりたくない」と言ってしまうのがさすがカネコアヤノである。
海のように「全てに捧ぐ愛」はないし、なんでも好きにはなる気もないし、でも、季節の果物を分け合う愛から始めよう、という歌なのだ。季節の果物を分け合う相手とは、その人にとって最も身近な人のことだろう。1番側にいて、大切にしたい人に、私は愛を注いでいきたい。
おっと、妻が帰ってきたようだ。
買い物を済ませたマイバックを受け取りに玄関まで行かなければ。
4月はいちごが美味しいらしい。