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「鍛える」力の「鍛え方」。
仕事の話。
打ち合わせにて。
最近は、後輩さんとも議論する場が増えてきた。
自分も、それだけ社会人年数が積み重なったのか…と感じる。
そんな打ち合わせの後。
「あぁ、また今回もやってしまった」と思うことが、最近多くなってきた。
ここ最近の悩み。
「自分の意見を言いすぎてしまう」こと。
社会人年数も積み重なってきて、後輩の育成を任される機会が増えてきた。
実務の現場で、OJT(On the Job Training)形式で。実際に仕事を任せながら学んでもらう。
ちょっと前まで「鍛えられる」側の立場だった自分が、気づけば「鍛える」側の仕事を受け持つようになった。
どんな風に教えながら、鍛えるのが良いのか考えてみた。
自分が新人だった頃を思い出し、当時大変だと感じたことをできるだけ避けられる教え方を心がけてみることにした。
当時の困り事…仕事のゴールが分からない。期日が間に合わなくて追い込まれる。
だから、仕事のやり方を1から10まで教えたり、期日遅れをフォローできるよう、進捗も日ごとに細かく確認したりするようにした。
そんな鍛え方を続ける中で、ふとこんなことを考える瞬間があった。
「この鍛え方、自分が新人の頃にされていたら楽しかったかな?」
仕事のやり方を1から10まで教えるがあまり、細かな業務要領まで指示してしまう。
進捗を確認し、フォローしようとするがあまり、相手の悩みを理解せず、自分が思う挽回案を提案してしまう。
確かに、「結果」としては失敗なく、期日通りに、無事に業務をこなしてもらえるかもしれない。
でも、その「過程」はどうなんだろう。
後輩は仕事をやり終えた時、自分の考えでやり切れた達成感を得られるんだろうか。
自分が新人だった頃、同じように自分を鍛えてくれた先輩の振る舞いを思い出す。
仕事の「背景」や「目的」、「ゴール」は伝えてくれたけど、そこに至るまでの「過程」は自分で考えてみてね、と自由度を残した「鍛え方」をしてくれていたな、と感じた。
それがあったから自分ものびのび働けたし、会得した知識を活かせたり、決めた方針通りに業務を進めてみて、うまくいって達成感を得られたりしていたんだと思う。
「自力で」結果を出せたことを体感してもらう必要があるんだと痛感した。
そう思ってからは、敢えてフォローしすぎないことも心掛けている…つもり。
テレワークで、お互い顔も見えずに仕事しないといけないご時世で、ついついうまくやれているか気になるけど、何か聞かれたら手出ししましょう、の構え。
けど、それでも時々、冒頭で話したように、後輩の意見を引き出すべきタイミングで、自分の意見を喋りすぎてしまったな、と後悔することがある。
提案してもらった意見に対して、ついつい自分の思う意見で反論してしまう。
どうしてなんだろう。
最初は、「後輩に、失敗や回り道をさせたくないから」だと思っていた。
でも、その根底にあった思いによくよく目を向けてみると、「自分のやり方が正しいと思い込んでいるから」なんじゃないか、と思えてきた。
その自分に、こんな風に自問自答してみた時に、明確に回答できる場合がほとんどなかったからだ。
「貴方の意見の『失敗』と『回り道』のリスクが、相手の意見より低いと断言できる理由は何ですか?」
これに答えがないのに、自分の意見で反論してしまうのは、自分が想定する型に嵌まっていないと気が済まないから…とか、
自分の意見にデメリットを見失っているから…とか、至極自己中な理由に思える。
仕事のやり方は人それぞれ。
考え抜いた末に出してもらった方針や意見であれば、それに乗っかるのも「鍛える」側の仕事なのかな…と最近感じつつある。
大切なのは、「結果」を見失わせずに導くこと。
敢えて、回り道や失敗を経験してもらうことも、時には大切なのかもしれないし、この人なら失敗してもフォローしてくれる、と感じてもらえる働きぶりをしないといけないのだろう…
「鍛える」側もまた「鍛えられる」立場だなーと痛感する今日この頃。
OJTでしっかり指導しなきゃ、とか言いつつ、OJTされてんのはどっちだよ、という話。
そういえば自分も新人の頃、色々失敗して覚えたこともあって、その度に先輩や上司がフォローしてくれたけど、あの人たちもまた「鍛えられる」立場だったのかな…などと振り返る。
すごく遅くなってしまったけど、そんな中「鍛えて」頂き有難うございました。
以上が、最近の「自分にとって『仕事するうえで』大切なこと」です。