Book Cover Challange (5, 6?日目)
#BookCoverChallenge Day 5 (2020/09/28)
西村ユミ『語りかける身体:看護ケアの現象学』ゆみる出版、2001年
いわゆる「ケアの現象学」と呼ばれる分野の著作。傑出した仕事だと思う(2018年には講談社学術文庫に収録された)。この本の説明を、裏表紙の紹介文でもって代えることにしたい。
いわゆる植物状態と呼ばれる患者は外側から観察されるかぎり、なんのふるまいも声を発することも出来ず、他者との交流が不可能な存在とされている。しかし、実際にケアに携わる看護者たちは、彼らとの交流を確かなものとして実感している。そのはっきりとは見てとれないが経験の内に埋もれている〈何か〉に、著者の視線は向けられる。そして自然科学的思考の枠組みを越えて、現象学の視点、つまり看護者のその都度の経験に立ち帰ることへと歩を進める。メルロ=ポンティの「身体論」を手がかりに〈身体〉固有の始原的次元へと立ち帰り、そのはっきりとは見てとれない関係を経験の内側から、看護者の視線から記述し開示しようとする。さらに、看護といういとなみそのものを問うていこうとする画期的労作!
ここには、哲学(研究)が役に立つ、一つの可能性が極めて鮮やかに示されている。つまり、これまで表現を与えられてこなかった経験、あるいは真正な経験だと見なされてこなかったような経験に、言葉を与えるということである。
ここで良くも悪くも認めねばならないのは、哲学の権威性だろう。もちろんその理論は何らかの真理に基づくから正当性を主張できるのだが、同時に現実には、メルロ=ポンティといった哲学者が「身体性」の次元を言葉にもたらしているから、看護師たちの経験も言葉にもたらされて、特別に意義ある表現であると認められる――そういう側面があることは認めねばなるまい。何かに意義が認められるというとき、そこではどうしても何らかの権威性は働くものだから、それが極力人間の人間性を尊重するものであってほしいと私は思っているし、そのために哲学が寄与するならばこれは本当に望ましいことである。
ただ注意せねばならないのは、哲学が自らの権威性によって人間の人間性を尊重することと、それによって哲学が自らの権威性を補強することとは別のことだ、ということである。これは当たり前のことを言っているように思えるかもしれないが、現実にはこの両者が相伴って行われがちであるように思える。私が言いたいのはつまり、この例でいえば、「植物状態の患者との交流といった経験を言葉にもたらせるから、哲学はえらい」などと、哲学の方で思い上がってしまったとすれば、それは筋違いであろう、ということである。もちろん現実には、哲学が自らの権威性でもって人間の尊厳を救い上げるために、哲学自体が己の権威を主張せねばならないという政治的な力学があるだろうが…。いずれにせよそういう意味で、哲学(研究)者は安易にこのような尊い仕事にすがってはならないと、己を戒めねばならないと思う。
この著者自身は、哲学からではなく、看護師としての経験から出発している。患者との交流として自身が感じているもの、周囲の看護師たちが確かに感じているものを、何とか学問的に把握しようとして、自然科学的方法(脳波の測定など)から社会学的方法(grounded thoery approachというものが紹介されている)まであらゆる方法を模索し、ようやくたどり着いたのが現象学的アプローチだという。それによってようやく、患者と看護師との間に成立している間主観的な経験、病院という公共的空間などを適切に言葉にもたらすことができるようになったのだ。
私はこの遍歴が非常に重要であると思う。もしこの著者が現象学研究というものから出発していたら、この本は書かれなかったのではないか。表現すべきもの、概念的に把握すべきものを、未だ概念化されぬまま頑固に保持しつづけたということは恐るべきことである。そしてここにこそ哲学的営為の真骨頂があるのではないかとも思う。
そのような「未だ概念化されぬもの」を、私は保持しているであろうか。それはあるような気がする。しかしそのような空隙は、自らの内にあるのではなく、世界の方にあるのだと思う。あるいは世界に私が出会う地点にある。こう言うと急に月並みなようだが、そのような空隙を認識するために多くのことを知らねばならない。そういう思いを強くしている。
#BookCoverChallenge Day 6? (2020/09/29)
今日はおやすみです。
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