そうだ、2年ぶりに福島行こう 写真で見る原発事故被災地の今
そういえば、原発被災地 今どうなってる?
遂に年を越してしまった!見たものをすぐに新鮮なうちに言語化して発信できなかった失敗は大きい。今から書くのは、去年11月に、東日本大震災の際の福島第一原発事故の被災地を2年余りぶりに訪れた時の話だ。
ある週末、どこかに行きたいものの、これという場所が思いつかない。そんな時に脳裏に浮かんだのが、あの福島の原発事故の被災地のことだった。
二年前のあの夏の日の、全町避難した町に立った時の、あの感覚・・・あまりに音が無く、耳栓をした時の”シーンという音”がするような、あのちょっと不気味な感覚がまだ頭に残っていたのだ。今、どうなっているのだろう。その想いだけで、ろくに準備もせず、特急ひたちに飛び乗った。
まず、最初におことわりを。原発に対する政治的に単純に二分化した議論はしません。なぜなら、原発による恩恵も被害も、ともに受ける人は政治的な見解と関係なく皆同じだから。まずはともかく現場を見てみたい、というスタンスです。
写真で被災地を疑似体験
それにしても、見たものをわかりやすいように写真に収め、関連する事実を調べ、関係者に話を聞き、多角的に確認し、それをひとつの記事にまとめて発信することはこんなに難しいことなのだと改めて思い知る。
今回の福島行きは長期間記事化せず管理がずさんだったので、調べたことを書いたメモがバラバラに散ってしまい、今すぐに記事を出せない。困った。でも、今出しておかねば。そこで考えた。私が見た物の写真をお見せすることで、読んでいただく方にも、一緒に、あの場所を少しだけでも疑似体験してもらえるのではないか、と。
「写真+キャプション」レベルですが、ぜひお付き合いを! 駆け足の弾丸ツアーになりますが、一度も原発事故被災地を見たことがない方は、ぜひご一緒に!
特急ひたちで、福島へ
さあ、出発。
前回と同じくいわきまで特急で。そこから、カーシェアで被災地に向かう予定。
東京駅に着き、駅弁を購入。特急「ひたち」だけに「常陸牛」の弁当だ。ホームに上がるのが発車ギリギリになったため、列車の外観を撮影できぬまま車内に駆け込んだ。駅弁を開けると・・・なかなかいい感じ。
ピロンと出ている糸。これをひっぱると・・・
シュワーッという音とともに蒸気があがり、弁当はアチアチに。このしかけ弁当は、もう何十年も前に、ある被災地の寒空の下でいただいた時に感動した覚えがあるが、すごい発明だな。世界の他の国でもあるのだろうか。
しばらく走ると、海が見えてくる。太平洋だ。またすぐ見えなくなるのだが、やはり海が見えると気持ちが昂る。
福島県のいわき駅に到着。こういう形の電車だったのか。
いわき市は人口としては県内一の都市。
車で被災地へ
駅前で、カーシェアの車を借りて、国道6号線を北上しよう。
放射線量の数字に緊張!
道中ドキッとするのが、放射線量を示す表示板。
線量は単純にいくつ以下なら安全と言えないようだが、山沿いを走る道では、さっと通り過ぎるボードを見ると、えっ?と思うような高い数字が出ていたこともあり、車の中とはいえ少し身構えた。環境省の除染関連の基準値のひとつ「0.23マイクロシーベルト毎時」という数字が頭をよぎる。
富岡町・夜の森地区へ
国道から内陸方面に入り、富岡町の夜の森地区を目指す。ここは二年前には訪れなかった。
見えてきたのは、有名な桜並木。去年は事故前以来14年ぶりに桜祭りが開かれたというニュースがあった。私が行った時は、車が時々通るが、人の姿はなかった。
その周辺の元住宅街は、こんな感じ。11月だけど夏草が伸び放題。
まだ解体されぬまま残された廃屋も目立つ。
夜の森駅前に来た。
除染で出た土は、「フレコンバッグ」と呼ばれる黒い袋に入れられている。ちなみに、フレコンバッグとは、フレキシブル・コンテイナー・バッグの意味らしい。
綺麗に整備された夜の森駅。
ここも”シーンとした音”がするのかと思い、緊張して訪れると、予想外の風景が。バイカーたちや、おそらく被災地を見ようと訪れたとみられる学生たち何人かが来ていたのだ。人がいる!嬉しい!ほっとする。
そして、駅の裏側に降り、驚いたのは・・・
「メンズ脱毛&エステ」のきれいな看板・・・で、営業してる!
そこは美容院。店舗も綺麗で、周辺にも人の住む住宅が何軒かあった。人が住む家や営業中の店を撮影することは憚られたので写真はないが、これは嬉しかった。住民がちゃんと戻ってきているのだ。これは、話を聞きたい。
お店のドアを開けると、美容師さんが地元のお客さんの髪の毛を切っているところだった。失礼しましたと立ち去ろうとしたが、いいよいいよと言ってくださり、少しだけ言葉を交わした。
町に戻ってきた人は2000人ぐらいいると教えてくれた。2000という数字が思った以上に多かったので、帰還がそんなに進んでいるとは、と嬉しい驚きの声をあげたものの、いやあ、まだまだだよ、と一言。しんみりとした雰囲気になってしまった。
もし自分がここの住民なら、普段全国のほとんどの人から忘れられていること、しかし、私のように、思いついたように時々見にくる人がいること、そして完全に町が復興する見通しが全然見えないこと、など、どう感じるだろう。色々考えさせられ、言葉が少なくなってしまった。
住民帰還の現状は?
全町避難があった自治体では、元々どれぐらいの住民がいて、これまでにどれぐらい戻っているのか。後日今回訪れた各町の役場に電話で聞いてみた。(去年11月)
【富岡町】 もともと人口は 約1.6万人
今は約2,500人だが、このうち帰還住民は、約1,000人
【大熊町】 もともと人口は、9,900人
今は約860人 このうち帰還住民は、約280人
【双葉町】 もともと人口は約7,100人 今住民台帳には 約170人
*期間困難区域のうち「特定復興再生拠点区域」の避難指示が解除されたといっても、それは当初設定された帰還困難区域のわずか8%に過ぎないとのこと。
https://www.nhk.or.jp/fukushima/lreport/article/000/31/
除染土壌の中間貯蔵
もっと色々見たいが、昼前から日が暮れるまでの5時間ぐらいしか時間がない弾丸ツアーなので、早速次へ。
「中間貯蔵工事情報センター」に立ち寄る。
除染で出た土壌は、福島第一原発周辺にある中間貯蔵施設に運ばれ、最終処分場に運ばれるまで保管されることになっている。そのしくみを係の人が丁寧に教えてくれる。時々貯蔵施設を回るツアーもあるのでぜひ参加を、と勧められる。いつか行ってみたい。
ちなみに、”県外に探す”とされているその最終処分場は、まだ見つかっていない。
2年ぶりの大熊町・大野地区は?
前回、人影のない荒れ果てた街で「シーンという音」を聞いて不安になり、「こんなの、無しだ」と思わず口にした、大熊町の大野駅に向かう。
JR大野駅前。綺麗な更地で、今から建設工事が始まる、という感じ。商業施設などが建設される予定だという。
https://www.town.okuma.fukushima.jp/uploaded/attachment/8604.pdf
前回は、車の外に出るのも怖くて入れなかったピカピカの駅舎に、今回は入ってみる。おお、ここにも人がいる。乗客ではなく、私と同様被災地の見学者のようだ。
不思議な感覚だ。人がまだ戻らない街にピカピカの駅舎があり、乗客はいないのに、そこに常磐線の列車が停まっては発車していく。
駅の周辺は、やはり無人の街が広がっていた。
”シーンとした音”は依然聞こえるのだけれど、さきほど生身の人間と言葉を交わしたし、旅行者も時折見かけるしで、気持ちが少し楽になっていた。
とはいえ、廃屋の中を失礼して窓越しに覗かせてもらうと、そこで生きていた人、その人たちの生業の跡が残っていて、胸が苦しくなる。
先ほどの夜の森の美容院のように、この廃屋の美容院も蘇って、店主と客が世間話をする日はいつ戻ってくるのだろうか。
福島第一に近づく緊張感
幹線道路以外は、まだ避難指定が解除されていない立入禁止地区が多数存在する。
国道6号線をもっと北上していくと・・・
見える!福島第一原発のクレーンが遠くに見える。胸がザワザワする。
前回は、この国道は、バイクや徒歩、自転車は通行不可。つまり、車で止まらずさっと通り過ぎるだけならいいですが、ということだ。怖くて車の窓も開けられず、意味はないが息を止めねばと感じたぐらいだった。しかし、その後規制は解除されて自転車や徒歩も全線で可能に。今回はほんの少しだけそこに止まってみた。
双葉町 壮観の「壁画アート」
さあ、長居はよくないと車に乗り込み、JR双葉駅前を目指すと・・・
見えてきたのは、廃屋のビルの壁一面に描かれた壁画アートの数々。このアート、実にいい。地元の人たちの顔がたくさん描かれているのだ。アートといえども顔がたくさん見られるのは、どこかホッとするものがある。
このアート壁画。建物が解体されてなくなったものも多いという。仕方ないが、もったいない。こんなに素敵な作品群なのに。
駅前には、これまたモダンなピカピカの建築物。新しい双葉町役場だという。
平日はここで職員が仕事をしている。掲示板には町議会招集の告示があった。
こちらの駅も、ピカピカ。
駅の中に休憩スペースがあり、案内の人がいる。ああ、また人に会えた。ほっとする。駅の目の前では、スーパーマーケットのイオンが建設中であることなど、教えてもらった。
双葉駅周辺で私が一番気に入った壁画アートは、こちら。
TOGETHERと書かれた、希望の町民の顔の壁画の横をみると、消防団分団の屯所が荒れ果てたままになっていた。
浪江町 津波の脅威を残す小学校跡
さあ、次へ。弾丸ツアーは疲れるが、あと2つ見るべきものが残っている。
「震災遺構・浪江町立請戸(うけど)小学校」。大津波で破壊されるも、教職員と生徒たちで少し離れた小山に逃げて助かった経験を今に伝えている。
ここでも、また放射線量。この数値には、ホッ。
東日本大震災・原子力災害伝承館へ
最後の目的地、双葉町の伝承館。
あの日何が起き、その後どうなったか。その全てが展示された本格的な資料館だ。
事故前、どのように原発の安全性が語られてきたのかの展示が、考えさせられた。
シメはやっぱり、浪江焼きそば
夕方、日もすっかり暗くなり、ほんの5時間程度の原発事故被災地の弾丸ツアーは、ここまで。最後は、前回同様、道の駅へ。
名物の「浪江焼きそば」は、無骨で濃厚な味、太い麺が、美味い!
今回は、初めて訪れて衝撃を受けた2年前と比べ、「人の存在」を感じることができたのが救いだった。
しかし、住民の数はまだ、あまりに少ない。今整備されようとしている商業施設などのインフラは、こんな少ない人口で運営していくことができるのか。そして、これらが、さらなる住民の帰還に結びつくかどうかは、まだまだ未知数。それは原子力の問題そのものの解決があまりに見通せないから。
私たち外の者は、こんなちょこっと来ただけでは、当然何もわからないのだけれど、やはり忘れることだけはしたくない。いや、忘れるという前に、ほとんどの人はまだ一度も現地を見られていないわけで、いったん原子力事故が起きるとどうなるのか、色々語る前に、その現実をまず体感するとよいと思う。
主に原発や工事関係者用だが、ホテルもあるという。ある自治体の役場の人が「今度はホテルに泊まって、ぜひゆっくりと」という。また暫くしたら、お店も増えていくかもしれないし、今度は泊まりがけで来てもよいかもと思った。
その時は、ピカピカの建物の中に、少しでも多くの「人」の「顔」が見られるようになっていてほしいのだけれど・・・