わたるん
満50歳になった時、ふいに「終活」を考えた。 終活の究極目的は「日々を穏やかに過ごす」事だと気づき 「それってイマココ(≒Well being)の実践じゃん!」と悟ってしまったので人生80年と想定して30年間終活を楽しんでる記録をつけたいと思います。
アジスは考える
「安心」は思考を穏やかにする為の暗示作用なのよね。 安心しないと眠れないって場合は概ね思考過多で身体を使って無いケースだから睡眠が浅いのよ
「比べる」のは外向きの枕詞みたいなもの 内観する時には全く必要無い概念よね
「最初に半分だけ入れる」 そうすると「まだ半分残ってる」になる
朝夕の通勤ピーク時に駅前などでパフォーマンスをする代議士やソレを目指す者はとても遜った行動をする だが そのスタッフは横柄でスキが多い者が散見される どちらも思考プログラミングが「外向き」に偏って設定されている故の行動結果である 前者は大衆に 後者は代議士やソレを目指す者に焦点が在るのだろう
思考を走らせる事で生じる性(サガ)は「個」を認知する。 異なる個と個の間に生じる差異は「関係」として「自」と「他」を構築し多様な「経験」を生み出す。 この経験の連続した蓄積がライフである。 ヒトの場合ソレを人生と呼ぶ。
思考とは無限を有限とする為のコードのようだ それは「経験する」為のソースコードとも言える このコードに基づいて「性(サガ)」を形成する事で 他の存在が生まれ「経験する」は多様を形成する事になる 一方でそれは「重なり」を集約確定する事で「偏り」を安易に産みやすい事になるのだが 一旦「偏り」を経る事で「重なり」を認識する事自体が「〝無限〟の望み」なのだろう 悟りとはここまでのプロセス全てを無限の重なりの中に生じさせ、管理権限を解放された状態なのだ。