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「信じる」ことで「見える」ことがある。

何気なくyoutubeを見ていたら、脳科学の池谷裕二さんの講演と出会いました。この講演の話は科学的な話だったけれど、自分が普段考えていることをとにかく深めてくれました。

その講演は、「なぜ、みなさんには私が見えるのか?」という問いから始まりました。理由はシンプル。「目があるからです。」だそうで…。全くひねることなく、ただただ当たり前の答え。そして池谷さんは、ボクらの見ている世界の話をしてくださっていました。

ボクらが見えている色は、赤と緑と青の光を感じることができている。しかも、僕らが見ている色は、ごく一部の光(電磁波)で見えているもの。紫外線や赤外線は見えていません。他にもX線やラジオ線もあるけれども、それも見えていないんです。でも、僕たちは一部の光で見ているものを全てだと思っている…ということです。

例えば、虫や鳥の中には、紫外線が見える虫や鳥もいるようで、もし僕らにも紫外線が見えたら…。花に普段見る以上に、妖艶な模様が見えたり、モンシロチョウはメスだけがキレイな模様が見えたりするんだそうです。実に面白かったです。よかったら記事の一番下にリンクを貼っておくので見ていただけたら…と思います。

師匠が見守ってくれているという感覚のこと。

この話を聞いていて、最近、ボクがリスペクトしている師匠の奥さんと話していた時のことがリンクしました。亡くなってしばらく時間は経ったんだけど、久々に話をしていると「亡くなったんだけど、亡くなった気がしない。いつもそばで見守ってくれている気がする…。」ってこと話してくださいました。実は、その話を聞いて、ボクも全く同じことを感じていることにちょっとビックリしました。

確かに亡くなってしまったんだけど、確かにいつも心の中にいてくれているし、言い方はあまり良くないかもしれないけれど、時にラジコンで操作されるかのようにご縁をつないでくださることがある…と感じるような出来事に出会うことがあります。それは言葉では説明できないけれど、確かにそこにあると思っています。

この話を、ボクが尊敬している石屋の先輩に伝えると、お墓さんについての考え方を教えてくださいました。「五輪塔思想」という考え方を例に教えてくださったのですが、簡単にいうとこんな感じです。

何かがそこにあっても、認識しないと何の意味も成さない。例えば、お墓についての大切な考え方についても、それがあるだけでは意味をなさない。その考え方を信じる心(「識」)が加わることでやっとその考え方が生きる。

先輩からの言葉、確かにそうだなと思いました。そこにあるだけでは意味をなさない。感じることができて初めて、そこにある意味が生まれる…ということ。ほんとそのとおりだと思いました。冒頭の池谷さんの話でいうと「目があるから見れる。」「感じることができるから見える。」ということ。

亡くなったボクの師匠がそばで見守ってくれているかどうか分からないけど、確かに見守ってくれている…と自分が思うこと、そして信じることで見えることもあるだろうな…と思いました。

息子と「お参り」を続けているからこそ見えるもの。

そんなことを考えながら、最近、息子と「朝参り」に行っていると、この池谷先生や師匠や先輩の話が頭をよぎりました。こうして「お参り」に行っていると、以前行っていなかった頃は見えていなかったことや考えていなかったことがあるなぁ…って思うのです。

それはこれまでも書いてきた「お参り」をしたらどう感じるのか…ってことや、子どもにとってどんな良さがあるか…ってことなど、「お参り」を重ねているからこそ、話せることや見えることがある…ってことを改めて感じています。

もしかしたら、息子との「朝参り」は、大切なことを見るための「目」というか「センサー」みたいなものをもらっているのかもしれないな…と思います。これからもできる限り、「お参り」を続けながら見えてくるものをしっかりと見つめていきたいと思います。

庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二


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