コロナ禍で思う事
耳馴染みのない「コロナウイルス」という単語がいまや当たり前のようにあり、何とも言いようのない閉塞感と共にある生活がどのくらい続いただろうか。
地方に住む私は、休日たまに電車で都内へと赴きライブ、美術館、展覧会、テーマパーク、海岸などへ遊びに行くのが何よりのリフレッシュ方法だった。住んでいる田舎は家賃も安いし人込みも少なく、自然も豊かだが、そこだけにいると何とも言えない息苦しさがあった。遠くに見える雄大な山々や果ても無く見える空に、そのまま圧迫されてしまうような感覚。だから、そんな心に空気を入れるように、時折遠くへと出かけずにはいられなかった。
が、それもコロナ禍によって電車自体に乗ることすら憚られ、県をまたいでの移動も良くないとくれば、自然と行動範囲は近場へと狭まる。人混みをあえて行くリスクを取ろうとまでは思えなかった。正直、未知のウイルスにかかることへの恐怖が強かったのだ。
これまで気楽に行えていた楽しみが制限され、都会へ行く理由も減って、私の胸中は何とも言えない気持ちになった。
ひとつは後悔と切望が混じったような焦燥感。興味のある所にもっと行っておけば良かったと悔やむ気持ちと、地元から気楽に別の場所へ行くという逃げ場を無くした焦り。胸の中に言いようのないもやがかかった。それはいまも変わらずに抱えている。
もうひとつは、私としても意外だったのだが「安堵」だった。都会で思い切り楽しめないのならば、かえって人の少ない地元の方が気楽なのかもしれない。正直そう思った。
そんな二つの気持ちを抱えながら、平日も休日もコロナ対策に気を配る日々。建物に入るたびに備え付けのアルコールで手指を消毒し、マスクをつけて人との関わりは最小限にとどめる。
閉塞的な生活を続けて数か月、そして1年以上たった頃にはさすがに「このままでは心が死ぬ…!」と思い、どこかに出かけようと思い立った。これまで調べようとしなかった近場の市と観光というワードで検索。そうすると山の中にある神社や、桜の名所などがいくつか出てきた。
調べた場所へ実際にハイキングを兼ねていってみると、想像以上に荘厳な寺社があったり、木々や花が美しかったりと見どころのある場所が多く、予想外に楽しめたのだった。
灯台下暗し、とはよく言うが、こういう状況になってみなければ、地元について色々調べるほどの興味関心が湧いていたかは分からない。
人込みの雑踏やライブ、展示会、観光地は恋しいけれど、思ったよりは都心部へ行きたいという切望に急き立てられることもなく、今の私は「いつか」を信じて悠長に待てるような気がしている。