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バジルトマトメンチ【#夜更けのおつまみ】
「ねぇ、マスターお腹減っちゃった」
アヤカはカウンターに倒れこみながら言った。
ここは住んでいるマンションの1階に半年ほど前に出来たBARだ。カウンターとテーブルをあわせても20席もない小さな店で、マスターが一人で切り盛りしている。夜遅くまでやっていること。料理とお酒が美味しいこと。そして何よりも疲れて家まで帰ってきたら、暖かい料理でお出迎えしてくれることが、独り身には大変ありがたく、嬉しい存在だった。
出来た当初から通いつめ、今では一番の常連といっても過言ではないだろう。お陰で少し太った気がするのは困ったものだけれど、マスターの料理が美味しすぎるのが悪いのだ。
「そうだね。定番だったら何でもあるし、試作品でよければ感想教えて欲しいヤツもあるよ」
「じゃそれ!それお願いしまーす!」
今日は金曜日。今週も仕事は忙しく、相変わらず上司はめんどくさい。誰かと飲みに行こうかと思ったものの、疲れが先にたって帰ってきてしまった。でも電車に揺られて家まで帰ってみたら、「おかえりなさい」といわんばかりにBARから明かりが目に入る。軽く1杯くらいなら……お腹だって減っているし。そうやって色んな理由をつけて、私は今日もマスターの料理に舌鼓を打ちにきたのだ。
時間はもう10時近く。明日が休みでなかったらさすがに来ていなかっただろう。しかしいざ飲み出せば楽しくなってくるもので、最初に頼んだビールはもう半分以上飲んでしまった。
天気が良くないせいか、今日の店は比較的空いていた。同じようにカウンターにあまり知らない男女のお客さんが居て、あとは2人がけのテーブルがひとつ埋まっていただけ。だからこそ常連客に試作品の品評でも頼んでみようかな……とマスターが思ったのだとしたらラッキーな話だ。何せどんなものでもマスターの作る料理ならおいしくないはずがない。メニューに名を連ねるにしろ、連ねないにしろレアな体験であることは間違いないのだ。
調理場との間をわけるのれんの向こうでは、何かを揚げるパチパチという音が響いてきた。香ばしい匂いも伝わってきて食欲をそそることこの上ない。「空腹は最高」のスパイスと言うけれど、今の気持ちは、そんなスパイスはいいから早く食べさせてほしいという一心だった。
「はい、できたよ」
そうこうしているうちに、マスターが料理を持ってきてくれた。中くらいの平らで白いお皿。そこにちっちゃくてまん丸いキツネ色が4つ。パセリと共に小鉢でケチャップが添えてあって、美味しそうというよりも、むしろこれは可愛い。
「やったー!!待ってました!いただきまーす!」
空腹に負け、マスターの注釈も料理名も聞くこともなく、アヤカは揚げたてのそれにかじりついた。
サクッという軽快な音に続いてきたのは、鼻に抜けるバジルの香り。熱々のそれを御しながら、ありったけの感覚で堪能する。ごろごろしたひき肉とたまねぎの食感は、それがメンチカツであることを伝えてくれる。バジルだけではない、全体に酸味がいきわたっていて、揚げ物らしからぬさわやかさが口に広がる。このすっぱさの元は……そうトマト、トマトだ。つまんだ断面をちらりと眺めると、ちりばめられたバジルに加えて、全体にほのかなトマト色。それに細く糸を引くこれはチーズ。サクサクとゴロゴロの触感をまろやかにつなぎ合わせている。
可愛い顔をしただけのただのメンチカツに見せかけて、バジルとトマトの酸味が効いたやんちゃでおしゃれな都会娘。そんな片田舎からあこがれ見る世界がこの小さな白いお皿に広がっていた。見た目も食感も良くて味も素敵。天は二物を与えるものだ……なんて、お酒の回った頭で考えていた。
「どう?試作品だけど。バジルトマトメンチ。美味しい?」
メンチカツをもう一つほうばり、残っていたビールで流し込む。
「…マスター。取り敢えずワイン。と、コレもう一皿追加で」
「はいよ。好評ありがとうございます」
笑いながらマスターはワイングラスを取り出す。
残念ながら今月も目標体重までは到達できなさそうだ。
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