映画「バブル」感想: 2020年代のセカイ系の結論とは?
本レビューでは、ネタバレを含みます。
Netflixからも配信されているアニメーション映画「バブル」を見てきました。
本映画は、インターネット上で絶望的に酷評されています。Yahoo映画の点数を見てみてください。2022/05/15時点で、2.2点です!
しかし、ここまでつまらないと話題の映画ですが、僕の点数は5点です。非常に面白い映画でした。
好きな作品の面白さが理解されていないと、非常に残念な気持ちになります。ぜひこの映画の面白い部分、楽しみ方を分かってほしい!そのような気持ちの元、自分でレビューを書いてみることにしました。
このレビューでは、特に以下の3点に注目しつつ、バブルの面白さを語りたいと思います。
バブルに影響を与えたであろう作品
なぜ2020年にこの映画が作られたのか?
バブルの新しさとはなんなのか?
バブルのストーリーと世界観
バブルの大まかなストーリーは、多くの方が指摘しているように人魚姫をモチーフとしています。以下のとおりです。
典型的なボーイミーツガールの作品のように見えます。が、僕はそうではないと思いました。バブルの本質的な筋にある問いかけとは
「未知の存在と、どのように僕たちは調和していくべきなのか」
ということです。作品中では、この筋を具体化したものとして、
「主人公」と「ヒロイン」
「チーム」と「別のチーム」
「個人」と「集団」
「ヒト」と「自然」
などが描かれていきます。しかも、表層的にはボーイミーツガールなので1番に着目しがちですし、ストーリーの序盤から中盤にかけては2番が主題に見えます。ところが全体の屋台骨となっているのは3番、4番なのです。この2つの要素に注目しながら見ると、バブルの問いかけである「未知の存在と、どのように僕たちは調和していくべきなのか」を理解することが出来ます。
バブルの世界における自然
バブルに関して低評価を述べている多くの方が疑問視しているのは、泡の正体です。泡とは何だったのでしょうか?
これに関しては、引用元とも言える作品があり、そこにヒントが隠されています。岩明均の寄生獣です。
ある時空から落ちてきたテニスボールのようなものの正体はエイリアンであり、ヒトに対するカウンターのようなものであることが作中では語られます。
「バブル」における泡は、なにを起こしたでしょうか?泡によって東京は海に沈みましたし、東京が他の地域から隔絶されてしまいました。
この描写から2020年の僕達が想起することは、東日本大震災における、東北地域の避難区域です。
このことから、僕は「バブル」における泡とは、恐ろしい自然の象徴として描かれているものであると理解しました。
自然の象徴としてのヒロイン: ウタ
泡が自然の象徴であるとすると、ヒロインであるウタもまた自然を意味するものになります。
事実、初めてヒトの形を為し、主人公たちの目の目の前にあらわれたときは、猫のような非人間的な振る舞いをしていました。このような「未知の存在と、どのように僕たちは調和していくべき」なのでしょうか?
本作では、主人公のヒビキがウタという名前を与えることによって、加速度的に知識を獲得し、ヒトからしても理解のできる物となっていくことが描かれます。自然に対して名前を与えるという観点では、漫画版の風の谷のナウシカ、Dr. Stoneが興味を引く作品です。
風の谷のナウシカでは、巨神兵の幼子に対して主人公のナウシカがオーマという名を授けることにより知識を獲得していきます。
週刊少年ジャンプで連載されていた2010年代の人気漫画、Dr. STONEの第2話では、科学という営みが自然の理解できないルールを探す(=名を付ける)ことであると述べられています。
近年の実写版映画だと、中山哲也監督の「来る」は真逆の方向で自然の恐ろしさを描きました。この作品の原題は「ぼぎわんが、来る」なのですが、映画だとあえて、何がくるのかをタイトルから外しています。それによって、怪異に対する不安感を煽り、更に一層怖いものとしているわけです。
自然とは古来から荒れ狂う嵐のような存在(=神)として、ヒトと共にあります。つまり恐ろしいものです。そのようなものを理解するために、名前を付けて、ルールを読み解き、理解しようとしました。
本作でもウタに名前を与えることで、自然を御し、理解できるものとしたわけです。
色で表されるヒトと自然の境目
本作では、色にとにかくこだわったことが公式からも述べられています。
カラフルな作品で美術としても非常に美しいのですが、本作では色がそれ以上に「ヒト」と「自然」を分けるシンボルとしても使われています。しかし、それは青色が味方、赤色が敵、のようなものではありません。均一であるなら「ヒト」、「混じり合っているなら「自然」という描かれ方です。この点を理解しておくと、美術に関しても意味合いを理解することが出来るはずです。
例えば、主人公たちのチームは一色で染まっていますし、ライバルチームのキャラクターは赤色だったり黒色で染まっています。均一であることはヒトの象徴なのです。
その一方で、自然の象徴として描かれるウタは、赤や黄色・青色が混じったちぐはぐな服装をしています。自然とは混合物として表されます。
自然が統一的な光景に見えて、様々な色の混合物であることに関しては、新国立美術館で現在開催中のダミアン・ハースト展でも面白いことが述べられていました。彼はインタビューの中で、次のように述べています。この話からは、自然をカオスな混合体として捉えることができそうです。
作品中でも、科学者のマコトが自然というものが渦のように集まり、拡散していくものであることが述べられていました。自然は均一ではないものなのです。泡に関しても、赤色と青色が混じったようなヘテロなものとして描かれていましたね。
ヒビキは自然の象徴ですが、ストーリーの展開とともに、主人公と心を交わし合うことによってヒトに近づいたり、離れたりしていきます。すなわち色の統一・混合が、人間性やヒトとの距離感をうまく隠喩しています。場面が展開するごとに、ウタがどのような服装をしているか、ぜひ気にしてみてください。
自然との向き合い方2020
本作ではストーリーが進むにつれて、恐ろしい自然の象徴であるバブルが更にもう一度牙を剥き、主人公たちを危機に陥れます。作中ではバブルが既に「起きたもの」として捉えられており、マコトのような一部の研究者を除いて「そういうもの」と見做されている状況です。すなわちバブルがもう一度牙を剥くことは、制御化にあった・理解していると思っていた自然の恐ろしさを改めて知ることに他なりません。
このような自然の恐ろしさへ対抗する話は、東日本大震災以降、国内サブカルチャーの大きなテーマの一つです。例えば2010年代後半の「シン・ゴジラ」「君の名は」の両作は、代表例ですよね。
シン・ゴジラではプロフェッショナルの力を総動員して、君の名はでは愛の力で乗り越えていきました。では、バブルではどのようにして、災害に立ち向かうのでしょうか?これがもう一つのテーマである「自分と他人」の相克に関係します。
人間関係の相克の物語
他者との関わりはあらゆる作品での中心的なテーマです。ボグラーとマッケナの「物語の法則」では、すべてのドラマの基本的な構築要素が相互アクションであると述べられています。
多くの閉鎖的な主人公の例に漏れず、「バブル」の主人公ヒビキは、本作において他者との関わり方を開放的な側面で成長させていきます。
聴覚過敏症を持つヒビキは、ヘッドフォンをして、他者との関係性を拒絶しています。ここには、「エヴァ」においてカセットレコーダーを聞いて他者を拒否しているシンジの影響が見えます。
ヒビキにとっては、外界の音はすべて煩わしいものですから、それを生み出す他者とのコミュニケーションもまた邪魔なわけです。
その状態を大きく変えるのはウタとの関わりでした。ヒビキはその耳の良さ故に、自然の象徴であるウタの声を深い意味で理解することが出来ます。彼はシャーマンの役割を持っているんですね。このコミュニケーションが、ヒビキにとっての成功体験であり、同時に
「世界とコミュニケーションをとってもいいんじゃないか」
という前向きな気持ちを育みました。
他者とのコミュニケーション史
ここらへんの、他者とのコミュニケーションは、エヴァ以降「うじうじ」した主人公から「やれやれ」という主人公を経て、ずっと大きなテーマとして存在していました。ガンダムOOは、まさに分かり合うことを中心的に置いた作品でしたよね。
ところが2010年代だとそういう主人公の葛藤は「めんどくさいもの」として一時的に排除されてきたように思えます。
シン・ゴジラが流行ったときには、まさにそういう「めんどくさい」点が無いことが、僕としても非常に痛快でした。
そんな中、2020年代を迎え、環境問題や政治的問題、それ以上に「シン・エヴァンゲリオン」でやっぱり僕たちは互いのことを深く理解する努力をしなくちゃいけないよね?という命題を突きつけられた状態で、バブルは存在するわけです。
自他を相克して自然に向き合うこと
自然との向き合い方に視点を戻しましょう。
バブルでは、ヒビキは2度目の降泡現象に一人で対抗することは無理だと認めて、同じチームの皆に「力を貸してくれ」と頼みこみ、別のチームの機材も借りて、更には先輩的なポジションであるシンさんの助力までしてもらい一丸となることで困難を乗り越えます。つまり2020年代的な自然への超克として、内面的も外面的にも「謙虚さ」を持ち込んだのが新しい所だと思いました。
個人的な体感としては、こういう危機的な状況に持ち込まれた主人公が無力さを認められることって、あまりないんですよね。むしろ、困難に対して一人で打ち勝つことが、英雄としてのストーリーの必要条件と見做されがちです。
本作では、主人公の周辺の問題ごとを、主人公のものとして完結させません。事件の大きな部分をヒビキの選択による因果が占めているので彼が一人で解決することは理にかなっているのですが、それを個人の問題として帰結させない。コミュニティを巻き込んで、皆が関わったストーリーとする。
そのような文脈を述べることは、「ヒトと自然」という世界に対する向き合い方に対して、「個人と集団」というもう一つの柱を持ってこないと、難しいと思います。このような等身大な解決方法を真面目に描いた部分が「バブル」が生み出した全身ではないかと思いました。
虚淵玄的なエンディングの更新
本作のエンディングでは、困難に打ち勝つヒビキを助けるため、ウタがその身をやつして、最後には泡となって消えていきます。
ここで自然の象徴であるウタが、自らの意思によって人間的にヒビキを助けるシーンが僕はとても好きです。彼女は美少女として描かれているんですが、やはり人間ではないんです。どこまで行っても本質は泡で、自然です。なのでウタが助けてくれるシーンは、チームの仲間が助けてくれるといった人間関係の結末で得られるものではなく、自然に対する奉仕として得られる報酬やギフトなのです。そこに神秘的な美しさを感じました。
「バブル」の脚本家である虚淵玄は、このようなキャラクターが自己犠牲的な起結を経て別れを迎えるエンディングが好きと言われています。もちろんまどか☆マギカが代表作です。
人魚姫をモチーフとする本作は、自己犠牲と別れを描くのに格好の標的でした。事実、ウタは泡となって消え、ヒビキは慟哭します。ところが、自然からいづるものであるウタは、本質的には死を迎えません。
エンディングロール後に描かれる東京を駆けるヒビキの側には、泡となったウタがともにあります。これはヒビキにとってウタの造形が本質的にはもはや重要ではなく、ヒビキの側にはウタが寄り添ってくれていること、世界にその存在(=美しい自然)を感じることを表します。
この点は、2011年に描かれたまどか☆マギカのエンディングとは大きく異なります。あのエンディングでは、神となった主人公の存在を感じ取れるのは「置いていかれた」存在のホムラだけであり、そこには世界に対する暖かさよりも、冷たさが先行しています。
このような作品心理を、僕はとても悲しく、つらいものだと思います。居なくなった人がいて、そのことを思い出したりするんですけど、常にしんみりしているんですよ!?いい気持ちではありませんよね。
バブルでは、このような居なくなってしまう象徴である「別れ」を「自然」という巨大な存在を通して肯定的に描き、
「自分は世界から取り残されてなんか居ないのだ、愛されていたのだ」
という、存在することに対する強烈な肯定感を謳った作品なのです。
この理解のためには、あおきえい×舞城王太郎のID:INVADEDと、同じく「別れ」をメインウェポンに作品を作る會川昇脚本のコンクリート・レボルティオがヒントになりました。
これらの作品は全て2010年代後半に作られたものであり、日本人が経験した311による大きな喪失をどのように理解することが救いとなるのかを考えた経緯が伺えます。
まとめ
バブルは未知の存在と、どのように僕たちは調和していくべき」かという問い掛けに向き合った作品です。ラブロマンスは、外側の殻どころか、ヴェールにすぎません。
美しい自然とどのように向き合っていく事、その自然が失われることがとても悲しいことであること、それでも姿かたちが変わっても自然がそばに居てくれること。様々なメッセージが込められています。ぜひぜひ、バブルを見に行ってみてください。
その他: 雑多な部分
「ウタのデザインが古臭い」ことは、作品を見終わった後にも友人たちと話題になりました。
個人的には、バブルのような自然への向き合い方の古さを表したものなのかな?と思いました。ナウシカとか、平成狸合戦ぽんぽことか。ディープ・エコロジーですね。ストーリーしか触れませんでしたが、世界を描いた美術はすごく綺麗でした。演出面でも、TPS的な視点でキャラクターを動かす構図が4DMXの装置とうまくマッチして面白かったです。序盤はキャラが多くて椅子が動くのが煩わしかったんですが、終盤になり視点がはっきりしてくると没入感がハンパないです!
実は序盤のバラバラなチームと、終盤の一体感をそれぞれ表しているのかもしれませんね。