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「外国語におけるコミュニケーション教育」を再考する❷

「外国語におけるコミュニケーション教育」の本題に入りたいと思います。

コミュニケーションを中心にした外国語教育は、70年代からもてはやされた教育法です。それまでの文法と訳読を中心にした外国語教育からの転換として生まれました。この2本柱は今でも、外国語教育の二大潮流として君臨し続けています。

コミュニケーション教育は、文章の訳読とは異なる教育を求める中で生まれました。文法教育ばかりじゃなくて、話す聞くの実践的な練習を取り入れるべきだとしたのです。

でも実は、コミュニケーション教育の中身を見ていくと、結局は文法注入のためにあることに気付かされます。課ごとにシチュエーションを変えながらも、教科書は文法事項を軸に展開します。多くの教科書制作者が「教えたい文法事項のピックアップ→文法事項を含む会話文作成→シチュエーションづくり」の順で、各課を組み立てているからです。

例えば、〜したい、고 싶다(ゴシプタ)を教えるために、やりたいことを尋ねる「무엇을 하고 싶어요(ムオスルハゴシポヨ)?」という文を作り、その会話が登場しそうな「旅行の計画を立てる」というシチュエーションを用意する、ということです。まず教える発音法則や活用法則、語尾をピックアップし、その文法を教えるために会話文が作られているのです。

手元の教科書を見てみてください。ある発音法則や活用法則、文型を含んだスキットが登場する、そのスキット中の文法を解説する、スキット以外のもので置き換え練習をする。どれもこの流れではありませんか?

この「スキット−文法解説−演習問題」の流れは、80年代にハングル講座が生まれた時から変わっていないようですね。時代によって、「예쁜 저고리네요(ステキなチョゴリですね」が「예쁜 원피스네요(ステキなワンピースですね)」に、「잡채가 맛있어요(チャプチェが美味しいです)」が「파르페가 맛있어요(パフェが美味しいです)」になっているだけなのです。

「コミュニケーション教育」におけるスキット練習

コミュニケーション学習として一般的なのは、スキット練習です。そこにはなぜか、「〜という文型を使って」という縛りがあることが多いです。なぜでしょうか。「何が好きですか?」「〜が好きです」というスキットは、誰かとコミュニケーションを取るという本来の目的よりも、「〜が好きだ」という文型を覚えることが目的だからです。スキット練習での「質問」は、相手のことを本当に知りたいと思ってしているわけではないし、「答え」も、教科書が用意した選択肢の一つを言ってみるだけで、相手に自己開示しようとするものではありません。こうした本来のコミュニケーションを愚弄するようなスキット練習だけを繰り返した結果、「相手とコミュニケーションする」という本質を見失ってしまうのかもしれません。

それは初級だから仕方がないのだ、まずは文型を覚えてから、と思う先生もいるかもしれません。では、レベルアップしたらどんなコミュニケーション学習が待っているのでしょうか。それは、「ネイティブ並みの発音習得」や「ネイティブ並みのこなれたフレーズを学ぶ」といったことです。これでは、コミュニケーションの場が「自分の発音力・フレーズ力を披露する場」になってしまうのが目に見えますね。こうした「自己満足」でしかない「相手無視」のコミュニケーションは相手からして空虚で無意味なものである、いささか言葉がすぎるかもしれませんが、「日本の英会話学習(コミュニケーション学習)ってちょっと変!?」というのがダグラスの言いたいことだったのではないでしょうか。

コミュニケーション学習における文法

現在の語学教科書は、そもそも文法事項の注入が第一の目的になっています。少なくとも、大学の語学テキストは、コミュニケーションを謳っても、核は文法事項です。その文法事項ですら、実は怪しいものだと内心感じています。なぜなら、会話は口語体で成されるものですが、口語体文法には体系化されたものがないため、読み書きのための文法と重複する範囲のものが提示されているだけだからです。韓国言語学の大家・野間秀樹先生が、それを構築するのは不可能であるとおっしゃっているくらいですから、体系だった口語体の文法なるものを提示出来る先生は、現時点ではいないのかもしれません。なので、文法書や現行の教科書をいくら学んでも、口語体まわりの説明が不十分なので、これでは推しの会話を十分に理解できるようになれないだろうなと感じているところです。

コミュニケーション学習で本当に必要なものとは?

では、コミュニケーション学習で本当に身につけるべきこととは、何なのでしょうか。千野栄一先生は『外国語上達法』の「会話」の項目で、英会話学習は、いわゆるコミュニケーションの類ではないと述べています。では、コミュニケーション学習で本当に身につけるべきこととは、何なのでしょうか。千野栄一先生は『外国語上達法』の「会話」の項目で、英会話学習は、いわゆるコミュニケーションの類ではないと述べています。会話の上達において重要なことは、「いささかの軽薄さと内容」だと答えて次のように述べています。

「いささかな軽薄さ」とは恐れずにしゃべる積極性であり、それ以上に大切なのは「内容」です。人と会ってしかるべき会話をかわすためには、常に準備が必要です。絶えず本を読み、政治や経済や、文化や芸術に関心をもたなければ、適切な話題提供はできません。外国語での会話は、結局日本語の会話と同じです。流暢な発音、こなれた言い回し、話し方といったノウハウは、コミュニケーションをとるのに、つまり人間同士がわかり合うために重要視される事項ではありません。必要なのは教養や知性の方なのです。

千野栄一「外国語上達法」

そうなのです。「流暢な発音、こなれた言い回し」といった言語的なテクニック・技法的なものは、コミュニケーションの本質ではありません。日本で行われている外国語学習は、書店に並ぶ本を見ても、発音や言い回しといった表面的なノウハウ伝達に偏る傾向が見られます。コミュニケーションで大事なのは、相手と交流したいという意志であり、自分が何を感じ、どう考えているかという私という人間の中身を表現することです。逆に中身があれば、皆さんが心配している文法力や発音力は、コミュニケーションでほとんど問題になりません。逆に推しとファンの会話は、伝え合いたい思い、相互理解が深いだけに、文法や発音がめちゃくちゃでも通じます。何だったら単語1つだって、英語と日本語で捲し立てても通じます。コミュニケーションとはそういうものです。

実際にあった例を挙げておきます。かつて、定価制を導入する前の東大門市場でのことです。私は韓国語での買い物に全く不自由しないレベルの韓国語力がありましたが、後輩は学びたてで、片言の状態でした。私とは比べものにもならないくらいに服にこだわりのあった後輩は、買い物しながら店のオーナーと交渉を始めました。普段、仕事で営業(韓国語でではありません)している後輩は、見事な駆け引きで、私よりお得に買い物をしてしまいました。その様子をそばで見ていて、語学力はコミュニケーションの本質ではないのだと深く恥じ入りました。後輩よりも流暢でこなれた言い回しのできる私の会話の方が、中身がなく空虚なものに感じたのです。たとえ片言であっても、中身のある会話に人は惹かれるのです。


また、批判的応用言語学者の久保田竜子氏は、『英語教育幻想』において、コミュニケーションについて次のように書いています。

コミュニケーション能力は、文法や語彙の正確さや会話の流暢さがその基本にあるのではなく、言い換えたり、相手の理解を確認するなど、意思疎通のためのストラテジーに支えられているといえます。(p162)
コミュニケーションの態度を支える要素として、「基本的態度」と「文化的知識」が必要です。「基本的態度」には自他の文化に対して興味を持つことや、偏見や差別的な行動を慎むことが含まれ、これは信頼関係を築く土台となります。(p165)

久保田竜子「英語教育幻想」

コミュニケーション学習では、発音矯正や文型演習をするよりもまず、相手と信頼関係を築くために必要な「基本的態度」と「文化的素養」を学ぶべきだといいます。相手や相手の文化に興味を持ち、知りたいと思うことです。「自分の語学力を試す」という態度には、相手のことを真に知りたいという心が欠如しています。相手が不快に思うのも当然なのです。さらに、偏見や差別に基づく発言を慎むことは言うまでもなく、自他文化に優劣をつけない態度を持つことも非常に大事です。コミュニケーションするときにだけ慎むのではなく、普段からの心掛けが必要だと思います。

外国語は異文化理解・他者理解のための入口・手段でしょう。つまり推しをもっと深く知りたい、ドラマの世界を深く知りたくて韓国語を学んでいるはずです。韓活韓国語の大きなコンセプトは、ことばの学びの中心が「文法・言語的な技法」ではなく、ことばの学びの中心に「文化」をおくというものです。

さあ、次回は最終回です。おたのしみに。


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