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語学学習における目標文化

思想家の内田樹先生が、外国語学習について面白いブログを書いています。先生はフランス思想の研究者で、私と同じように言語学者ではありませんので、スタンスが似ているかもしれません。

外国語学習について語るときに、「目標言語」と「目標文化」という言葉があります。
「目標言語」というのは、今の場合なら、例えば英語です。なぜ英語を学ぶのか。それは「目標文化」にアクセスするためです。英語の場合であれば、ふつうは英語圏の文化が「目標文化」と呼ばれます。
僕らの世代において英語の目標文化ははっきりしていました。それは端的にアメリカ文化でした。アメリカ文化にアクセスすること、それが英語学習の最も強い動機でした。僕たちの世代は、子どものときからアメリカ文化の洪水の中で育っているわけですから、当然です。FEN(極東にいるアメリカ軍の軍人および家族向けの放送)でロックンロールを聴き、ハリウッド映画を観て、アメリカのテレビドラマを観て育ったわけですから、僕らの世代においては「英語を学ぶ」というのは端的にアメリカのことをもっと知りたいということに尽くされました。
僕も中学や高校で「英語好き」の人にたくさん会いましたけれど、多くはロックの歌詞や映画の台詞を聴き取りたい、アメリカの小説を原語で読みたい、そういう動機で英語を勉強していました。

多くの人にとって外国語を学ぶ動機は、「外国語の向こう側」にある強烈に引かれる物、目標文化にアクセスすることだそうです。

そして、フランス語を学ぶ理由を、内田先生は次のように回想しています。

その後、1960年代から僕はフランス語の勉強を始めるわけですけれども、この時もフランス語そのものに興味があったわけではありません。フランス語でコミュニケーションしたいフランス人が身近にいたわけではないし、フランス語ができると就職に有利というようなこともなかった。そういう功利的な動機がないところで学び始めたのです。フランス文化にアクセスしたかったから。
僕が高校生から大学生の頃は、人文科学・社会科学分野での新しい学術的知見はほとんどすべてがフランスから発信された時代でした。40年代、50年代のサルトル、カミュ、メルロー=ポンティから始まって、レヴィ=ストロース、バルト、フーコー、アルチュセール、ラカン、デリダ、レヴィナス…と文系の新しい学術的知見はほとんどフランス語で発信されたのです。
のちに大学の教師になってから、フランス語の語学研修の付き添いで夏休みにフランスに行くことになった時、ある年、僕も学生にまじって、研修に参加したことがありました。
振り分け試験で上級クラスに入れられたのですけれど、そのクラスで、ある日テレビの「お笑い番組」のビデオを見せて、これを聴き取れという課題が出ました。僕はその課題を拒否しました。悪いけど、僕はそういうことには全然興味がない。僕は学術的なものを読むためにフランス語を勉強してきたのであって、テレビのお笑い番組の早口のギャグを聴き取るために労力を使う気はないと申し上げた。その時の先生は真っ赤になって怒って、「庶民の使う言葉を理解する気がないというのなら、あなたは永遠にフランス語ができるようにならないだろう」という呪いのような言葉を投げかけたのでした。
結局、その呪いの通りになってしまったのですけれど、僕にとっての「目標文化」は1940年から80年代にかけてのフランスの知的黄金時代のゴージャスな饗宴の末席に連なることであって、現代のフランスのテレビ・カルチャーになんか、何の興味もなかった。ただ、フランス語がぺらぺら話せるようになりたかったのなら、それも必要でしょうけれど、僕はフランスの哲学者の本を読みたくてフランス語を勉強し始めたわけですから、その目標を変えるわけにゆかない。フランス語という「目標言語」は同じでも、それを習得することを通じてどのような「目標文化」にたどりつこうとしているのかは人によって違う。そのことをその時に思い知りました。

地域研究を志す研究者は、その言語が何となくペラペラになることを目標にはしていません。アクセスしたい目標文化がはっきりしているので、内田先生は、語学の先生に啖呵を切っています。

ここに登場するフランス語の先生のように、多くの語学の先生は、生徒をとりあえずぺらぺらに導こうとします。学生の興味や関心である、学生にとっての「目標文化」を考慮し、配慮するケースがとても少ないのです。「目標文化」という概念を意識しているかどうかすら怪しいと思います。

内田先生にとっては「フランス思想」が目標文化だったので、ペラペラに導くための「芸人文化」は潔く切り捨てました。皆さんは、自分にとっての「目標文化」を意識していますか? 

さて、内田先生の英語論の続きです。

しかし、まことに不思議なことに、今の英語教育には目標文化が存在しません。英語という目標言語だけはあるけれども、その言語を経由して、いったいどこに向かおうとしているのか。向かう先はアメリカでもイギリスでもない。カナダでもオーストラリアでもない。どこでもないのです。

さあ、大変です。何と、現在の英語教育には目標文化が存在しないというのです。これは、どういうことで、どんな問題があるのでしょうか。ジャスティン・ビーバーやアリアナ・グランデといったポップスに憧れて英語を勉強し始める人もいるでしょう。でも、現在の英語学習の動機で圧倒的に多いのは、受験突破のためです。あるいは、英語をとりあえず話せるようになりたいという漠然とした願望です。こうした動機には、目標文化が存在しません

検定試験や大学入試といった受験という動機は、「目標文化」を持つという動機とは対極にある動機といえます。受験で大事なのは、効率的で無駄のない受験対策です。ゴールにたどり着くことが目標なので、どうすれば早くたどり着けるのかを考え、対策マニュアルの通りに、近道を進もうとします。一方、目標文化を持つ人は、ゴールにたどり着くことが目標ではないので、旅路そのものを楽しみます。他人の作ったマニュアルは必要ありません。自分の興味関心に従って、自由気ままに寄り道をし、自分ならではの旅の思い出を作っていくのです。

英語学習を思い出すと、ポップスが好きな人は歌詞を書いたり自分なりに翻訳してみたりと、日常的にできるだけ英語に触れようとしますが、テスト対策をするだけの人は、要領の良い人ほど、勉強時間はなるべく短くし、余計なことをしません。「ここはテストに出ません」といわれた部分を、敢えて勉強したりしませんよね。目標文化がある人とない人とでは、実は行動パターンが変わってくるはずなのです。試験対策のための勉強は語学学習に有効だと思われがちですが、目標文化のある人と比べたら、一体どちらが有利でしょうか?

さあ、韓国語はどうでしょう。Kコンテンツにあふれる今の時代、目標文化を持つ人が20年前と比べて急増していると思います。受験のため、仕事のために学ばなければならないのではなく、自ら進んで、自発的に韓国語を学ぼうとしている。そのこと自体が、語学を身につけるのにとても有利なのです。


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