大学の韓国語教育にかける時間とは?:大学の韓国語教育②
前回は、ほぼ駆逐された(そんなこと言ったら怒られるか汗)アカデミズムの韓国語と文法学習の効用について書きました。
さあ、今回は授業時間について考えてみたいと思います。
大学の韓国語は7割以上が一般教養
日本の大学教育における韓国語教育ですが、先行研究を見ると、韓国語教育は日本の大学の63.8%(469校:2016年調べ)に設置されています。
案外多いですね。
そして、韓国語教育を実施している大学のうち、「専攻」としてのカリキュラムを設置しているのはおよそ20校(2018年調べ)しかありません。
おや、案外少なくありません?
つまり、日本の大学で学ぶ韓国語のほとんどが、「ガチ」なカリキュラムではなく、「教養」カリキュラムなんです。いわゆる「パンキョー(教養科目)」なんです。
「教養」カリキュラムのうち、「7割以上が週1コマ」(2003)、国立大学は「およそ7割が初年次のみ」(李安九・2020)という調査があります。これはつまり、韓国語教育のカリキュラムは、「週1の2年間」ないしは「週2の1年間」だということのようです。
これを時間数に直すと、およそ100時間(週2×2学期×15回×100分=6000分)です。(※1回の授業時間は90分か100分が一般的です)
少ないような言い方をしたけれど、授業で学んだあとに独学してるかもよ、と。では、パンキョーの1年間の学びを終えてから、自主的に「おかわり」で学ぶ学生はどのくらいいると思います? 私が以前勤めていた国立大学には、「教養」カリキュラムとしての韓国語しかありませんでしたが、「その後も続けて学びたい」と言ってくる学生は、受講生およそ300人中、2人でした。99%の学生は、韓国語を一般教養としてちょろっと学んで終わってしまっているのです。
そして、忘れてはならないのは外国語が「必修」の大学が多いことです。外国語なんて履修もしたくない学生は、「まだましかも」的な消極的選択をしています。興味も関心も無いばかりでなく、本当に出来るようになるだけの時間数も掛けられていないのに、確実にこのあと忘れることになる「文法と単語の1000本ノック」が始まるのです(私もしましたね)。ですから、大学生の裏掲示板では、楽単語学はどれ?といった、情報のやり取りが盛んです。
前任校で経験した理系の最履修クラスは、やる気も語学センスもなくて単位を落としてしまった哀れな理系男子の集まりですから、クラス中に蔓延している負のオーラが半端なかったです(笑)。
100時間は多いのか、少ないのか
「ハングル検定」が示している学習時間を目安に、100時間の時間数が多いのか少ないのか考えてみましょう。
「ハングル検定」では5級が40時間、4級が80時間を目安としています。50時間は、5級程度の時間ということになりますね。100時間というのは、まずまずの時間ということでしょうか。
中学の英語の時間数を見てみましょうか。英語の時間数は増加傾向にあり、新学習指導要領では3年間で420時間とされています。高校は、多いところで500時間。とすると、6年間で920時間ということになります。
では、わずか20校にしかないという希少な韓国語専門教育は、どのくらいの時間数なんでしょうか。
調べたところ、週3〜週6コマを2年〜3年というカリキュラムになっています。つまり、少なくても年間90回×100分×2年=18000分(300時間)、多いところでは年間180回×100分×3年=54000分(900時間)くらいになります。さらに、留学も課すところが多く、留学中はさらに時間数が多くなります。教養カリキュラムの3倍から9倍、英語の6年間分に匹敵する時間数なんですね。100時間がいかにちっぽけなのかがわかります。
ただ、日本の大学現場の実態からいうと、授業中9割は先生がしゃべる時間です。学生が主体的に何かを行う時間(ワークに取り組む時間など)はせいぜい1割程度。50時間中の1割しか実際には学習していないとすると、現実的な学習時間は5時間にしかなりませんね。
100時間で何を教えるか
日本の韓国語教育は、1年で100時間がメインだということですが、どんなことを学ぶのでしょうか。専攻と教養の韓国語のカリキュラムをもつ大学の実際のシラバスで見ていきましょう。
教養と専門を比較したら、教養のほうがより易しいことを教えているのではないかと普通は考えますよね。
よくシラバスを見てみてください。専門カリキュラムは、これに加えて、「コミュニケーション」や「発音」の授業を同時に受けています。教養は、1つの授業の中で「コミュニケーション」と「発音」も教わります。つまり、専門カリキュラムが3回(300分)もの時間を使って教えていることを、教養カリキュラムは1回(100分)で済ませてしまうということです。こんなことをしたら、1回あたりの内容がてんこもりになります。
他の大学を見ても、教養カリキュラムは、「ダイジェスト版」の教科書が使われているようです。ダイジェストとは、内容を薄めつつも全部含まれるということです。学習時間はたった100時間なのに、「文法も」「発音も」「会話も」全部教えるという、欲張りな設定だといえるのです。
しかも、教員としてはできるだけたくさんのことを教えてあげたいという気持ちがあるので、時間の許す限り文法事項を省きたくないですね。私が授業中によくしている、ちょっと脇道に反れたこぼれ話とかドラマやKPOPを例に挙げてみるとかといった、いわゆる先生のおしゃべりのほうが封印されてしまいます。文法事項だけをぎゅうぎゅうに詰め込んだ授業になってしまうということです。
擁護しておくと、教える側も決して怠けているわけではないし、熱意がないわけでもないんです。むしろ、いろいろ教えてあげたい思いが強すぎて、大学のテキストは、びっくりするぐらい字が小さく、内容もぎっしり書かれています。
毎年秋になると、各出版社から大学向けテキストの新刊が研究室に届きます。毎年「コレが答えだ!」的なテキストが届きます。超本格的な語学教育をベスト盤のごとくこれでもかと凝縮して詰め込んだテキストとか、色々な先生が己の経験値を生かし、教育現場の実情に合わせようと、情熱を燃やした跡が見えます。でも現在のテキストは、既存のテキストのマイナーチェンジ(例えばイラストのかわいらしさとか、恋愛におわせ本文など)に過ぎません。
これらの成果が、書店に並ぶ韓国語のテキストにも反映されるんでしょう。同じような本が、ジャケットとレイアウト、イラスト、あるいは著者を変えているだけ。本屋に並ぶ語学のテキストが代わり映えしない正体は、大学のテキストがそうなっているからだと思います。
100時間でできること
じゃあ、100時間で何を教えるべきなのか、優先順位は何なのか、といった議論があるべきなわけですが、実際はそのような議論は起きていません。
理由はすでに「型」が決まっているのでそれをどう効率的に分かりやすく教えるかという議論はあっても、「100時間でまとまりを付けて終わらす教育」という発想はされません。
世の中が考えないのなら、100時間で何ができるかというと、方法は二つしかありません。全体の内容を薄めるか、一部に特化するか。
シラバスで確認したように、現在の教養カリキュラムで用いられる初心者向けテキストは、ほとんどが前者のダイジェスト版です。「採択されたい(売れたい)」という思いの現れなのか、「総合」とかいって4技能を満遍なく取り入れた「全部盛り」の総合型です。全部について、時間が無いので薄くさらりと触れるので、記憶にも残りません。「教員が教えること、テキストで展開されること」=「学生が身につけられる能力」ではありません。また昨今は実用を検定試験の資格取得と捉える人も多く、100時間を検定試験対策に費やしています。これをすると、授業は暗記と小テストばかりになって、学生の心はどんどん離れていきます。学習後に記憶にあるのは「激音」「鼻音化」「不規則」といった断片的な文法用語だけ。それが何を意味していたかは、そのうち忘れてしまうでしょう。総合型は、一見良いように思えますが、なぜその学びや活動が必要なのかを示せない、考えさせないで行われています。4技能というい型に沿っているというだけで、明確なビジョンがないから、学生を強く引っ張ることができないのです。
後者の特化型は、中級以降のテキストには見られますが、初級テキストにはありません。大学では7割以上が初級(1年)で終えるって最初にお伝えしましたよね。読解1点集中とか、暗記しない学習とか、振り切り方はあると思うのですが、総合型にまだまだこだわっているんですね。まさに器用貧乏です。教養科目でなぜバランス良く4技能にこだわるのか、私は正直分かりません。登れない山(カリキュラム・テキスト)を作っておいて、「何かモノになったという感覚はありません」という学生を続出させてるんですよ。教養語学科目でのバラ色「総合」は実用とは程遠い成果を上げられない教育だし検定オーソライズはやっている感を出しているだけに思えます。
では、何に特化したらいいのでしょうか。消去法で考えてみましょうか。「正しさ」「流暢さ」というキーワードはまずNGだと思いますね。先生の熱意が空回りするだけでしょう。プロを目指させるんじゃないんだから、本人の「楽しいという気持ち」を優先させてあげたらいいと思います。ですので前任校では最大限文化ネタで喋り倒し、決まり文句の反復練習に力を入れていました。
この業界で従事されている先生たちも、うすうす気付いていると思いますが、教養科目のカリキュラムでは、しゃべれるようになるとか読めるようになるとかいった実用的な能力は何も身についていないことを、私は確信をもって言えます。
株やダイエットの世界と同じで、出来る人が再生産の側に回るので、挫折者や失敗者の「声」は全く反映されません。履修者にどんな力が付いたのかを検証し、挫折者の要因分析をするべきだと思っています。でもそういう研究は残念ながら余りありません。
そもそも大学の第2外国語は、時間数から考えて、「実用的な外国語教育」を目指すことは現実的ではありません。英語を中高6年間(900時間程度)やっても、実用レベルに届かなかったでしょう? どうしてたった100時間でそれが「できる」ことになるのでしょうか。大学の教養カリキュラムは、もっと授業時間数を意識して、ダイジェスト版以外の選択肢も考えてみるべきだと提言したいのです。大学でそうであるならば、市民講座や高校も同様かと思います。
語学学習における実践
少し話がずれますが、語学教育で大事なことについて記しておきます。語学の運用能力を身につけるには、先生からのインプットだけでなく、学生のアウトプット(実践)が必要です。100時間の中でそれを可能にするためには、「先生がしゃべる」のではなく、「学生に読ませる・しゃべらせる」といった学生主体のアウトプット活動にもっと時間を割くカリキュラムを真剣に作っていく必要があります。そう考えたら、文法などの知識教育は、VOD(ビデオオンデマンド)に譲り、授業では主体的なアウトプット活動に専念する必要がある、といったことにも気付くはずです。
それから、じゃあ学生のアウトプットを増やせばいいじゃないか!といっても、やみくもに増やせるものでもありません。履修者が多いと、学生のアウトプットへのレスポンス(作文を書かせれば添削が必要など)が滞り、授業運営がままならなくなるからです。大学の外国語教育を文法中心の教育にしてきたのは、大人数(30人以上)に対して行えるインプット教育だったからだとも言えます。
いろいろ課題はあるものの、まずは100時間という条件を意識することで、大幅な発想の転換が生まれると思うんです。
ここまでは大学の話題でしたが、一般の韓国語学習者の実践についても述べておきます。
本来、学びとは「自分から学ぶ」ものであり、「人から教わる」ものではありません。大学なら、「授業で学んで終わり」ではなく、その後に練習が必要です。一般の学習者なら、語学のテキストを読んだりまとめたりする勉強以外に、実践が必要なのです。
実践とは何でしょうか。単語の暗記? 練習問題を解く? こういったことを勉強と捉えている人が多いと思いますが、これは、いうならば「テスト対策」のための勉強法です。実践とは違います。
実践とは、こういう活動のことです。
・関心のある記事を読む
・韓国語でSNSを読んでみる、書いてみる
・音楽やドラマを音声として聞いてみる
「韓国語でおしゃべりする」は、日本で暮らす人にとってハードルが高い実践かもしれませんが、記事やSNS、ドラマやVライブ、音楽になら日常的に触れられます。それを実践の機会としてみてください。こうした遊びでは?と思われる部分こそが、語学の実践であり、語学習得に不可欠な要素なんです。
机に向かうことが勉強だと思っている人。机に向かうだけでは、語学は身につきません。語学は文法理解や暗記だけで身につくものではないのです(逆に文法理解や暗記を全くしなくても実践さえあれば身につきますし)。
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