【市川雛菜『感謝祭』編考察】雛菜が持って生まれてこなかった、ひとつの才能について
こんにちは、ラノベ作家の藍月要です。
最近出した本の著者プロフィールにこんなことを書くくらいには、シャニマスにハマっています。
今まで書いてきた怪文書は以下の通り。
基本的にはノクチル学を専攻しており、特に雛菜と小糸が専門分野です。
シャニマスでは記事投稿現在(2021/01/08)、ノクチルの新エピソード『海へ出るつもりじゃなかったし』が公開中。
いいタイミングな気がするので、今回は『感謝祭』編について、雛菜についての自分なりの考察をここに書いておきたいと思います。
というのも、このエピソードから雛菜の人生哲学についてかなり掴めた実感があるので、せっかくなので文章に起こしておきたいなと思った次第。
もちろんあくまでわたしのごく個人的な解釈ですが、「雛菜ってどういう子なんだろう?」と頭を悩ませておられる方々に、本記事をひとつの叩き台として使っていただけたら幸いです。
感謝祭の大まかな流れ
さて、ノクチル『感謝祭』編は、ものすごくざっくりと言うと、
①応援してくれているファンのために感謝祭をやることになった
②ステージ演出決まらん。Pが仮組み作ってきてくれたけど、自分たちでも考えなきゃ
③そもそもパフォーマンスの練度が低いので練習せねば。自主練がんばる小糸、付き合う透・円香、堂々と帰る雛菜
④自主練のおかげもあってパフォーマンスがいい感じになった。ステージ演出は、自主練してなかった雛菜が実はいろいろ考えてくれていた
⑤感謝祭成功、あざっした!
みたいな感じです。
わりと雛菜と小糸が軸の話ではあって、要するに、
・練習という形で努力をした小糸が、ステージパフォーマンスを完成させる
・案を考えるという形で努力をした雛菜が、ステージ演出を完成させる
みたいな話——
では、ない気がします。
小糸と雛菜の、もうひとつの対比
なぜかというと、『案を考えるという形で努力をした雛菜』と書きましたが、おそらく雛菜は努力なんて思ってやっていないからです。
ステージパフォーマンス完成に寄与する小糸、ステージ演出完成に寄与する雛菜、という対比となっている……この見方は合っていると思うのですが、”寄与する”ということを、努力でくくるのはきっと適切ではなさそう。
今回の『感謝祭』には、もうひとつ対比で見るべき観点があります。それが、
・やりたいことは、義務を果たしてからでないと実行する権利がないと考える小糸
・やりたいことは、やりたいのだから常日頃からやり続けていくのが幸せと考える雛菜
です。
やりたいステージ演出が合ったけど、歌やダンスが十分でなかったから今まで言い出せなかった、でも今はできるようになったから案を出したい……とみんなに伝える小糸。
では、同じシーンで雛菜は小糸にどんなことを言っていたかというと、
早く言えばよかったのに、というストレートさ。やりたいこと、楽しいことをどうして我慢するの? 的な、彼女の思想が見えます。
実際、ステージ案を考えていた雛菜は、それを『努力=したいことを我慢しながら、したくないことをすること』と思っていたわけではなくて、今したい楽しいこと・幸せなことをやっていただけです。
ひとり、ファミレスで案を考える雛菜。楽しそうです。
ステージ演出のことを話していたときも、終始楽しそう。
そして、
実は案を作っていたということがメンバーに知られたときも、「雛菜もがんばった〜♡」なんてことは一切言わない。
パフォーマンスも合格ラインに届き、小糸も案を出し始め、いよいよ本番の成功が見えてきた段になって、「盛り上がってきたな」とシャニPが言えば、
この反応です。”ずっと”楽しみ。
だから、とっておく
「楽しく、しあわせ〜にやるのがいちばん」、これはW.I.N.G.編の頃から最前面に出されていた、市川雛菜の人生哲学です。
『感謝祭』でもそれは変わらずでした。言ってしまえば、特段なにか、そこからさらにより深く理解できるようなこともなさそうで。
なので正直、『感謝祭』については考察記事書かないでいいよな〜……と、思っていたのですが、最後の最後ですごく重要なものが出てきました。
『感謝祭』編ラストの雛菜固有エピソード、(『感謝祭』は、ほとんどがユニット共通エピソードだが、最初と最後だけアイドル固有のエピソードが入る)、雛菜はスマホで自分がSNSに上げた写真を眺めています。
「これはあのときの写真、こっちはあのときの……」と、プロデューサーに次々と説明していく雛菜。
そして彼女は、こう言います。
雛菜は、たしかに思い返してみると、『感謝祭』で描かれたものに限らず、さまざま場面で写真を撮っています。
たとえば、以下は『天塵』のシーン。テレビ収録直前、控室の写真を撮っています。
わたしは『感謝祭』のラストの雛菜エピソードを見るまで、この”写真を撮る”という雛菜の行動を(メタ的に言うと、それがわざわざ描かれることを)、彼女が状況を楽しんでいることの象徴なんだと捉えていました。
どんな状況でも緊張や萎縮をすることなく、いまを気楽に楽しんでいる——それを示すわかりやすい行動として、写真を撮るということがたびたび出てくるのだ、と。
実際、その解釈が完全に間違っているわけではないとは思います。上記の『天塵』のシーンにしても、テレビ収録直前にあってまったく緊張していない雛菜の様子を描いてる、という一面はあるでしょう。
ただ、根底にあるものは違ったのです。
この一連の言葉を、これまで示されてきた彼女の人生観に乗せて換言するなら、きっと、
『”しあわせ”は取っておけないから、せめて、撮っておきたい』
と、なるのかなとわたしは思います。
(ダブルミーニングとして「撮っておく」の裏側に同じ音の「取っておく」を絡めるこのやり方、シャニマスだなーという感じがします。読者を信頼しているというか、強火でストロングな戦い方)
ここからわかるのは、雛菜にとって、”しあわせ”というのはすごく儚いものだということです。
その場限りで消えてしまう、決して留めることも貯めることも、引き止めることもできないもの。それが市川雛菜にとっての”しあわせ”。
このシーンを見てようやく、どうして雛菜があそこまで”しあわせ”に執着するのかがわかった気持ちです。
彼女にとって”しあわせ”は、すごく儚くて、その場ですぐになくなってしまって、取っておく・持っておくことができない。
だから、彼女はいつでもそれを新たに求め続けなければいけない——かつてそこに”しあわせ”がたしかにあったことを撮っておく、そんな、せめてもの抵抗をしながら。
雛菜が努力を疎う理由も、ここからわかってきます。
努力とは構造的に、
「未来に訪れるかもしれない、より大きな”しあわせ”を掴みにいくために、いま目の前にある”しあわせ”を犠牲にする行為」
です。
”しあわせ”は儚いものであり、結局取ってはおけない。その場限りで消えてしまう。そう考え、そう感じる彼女にしてみれば、なるほどたしかに、努力はかなり分が悪い行為です。
だって、努力をしてどんな大きな”しあわせ”を得ても、それも結局その場限りで消えてしまう。保持はできない。
だったら、普段から、一つひとつは小さくとも構わないから”しあわせ”をとにかく次から次に捕まえ続けて、絶え間なく味わい続け、擬似的に”しあわせ”を保持しているかのような状況を作った方がいいわけです。
実際、雛菜は大きな”しあわせ”である感謝祭を味わったあとには、やっぱり悲しそうです。
常に新たな”しあわせ”を求め続けて彼女が走るその足元を、幸福に満ち満ちた旅路と見るか、崖に置かれたランニングマシーンと見るかは、人によるでしょう。
ともあれ、雛菜が、
「”しあわせ”は取っておくことのできない、その場限りの儚いもの」
と考えているのだと認識すると、さまざまなエピソードでの彼女の振る舞いが、すごく腑に落ちます。
身勝手だからとか怠け者だからとか、シャニPがプロデュース最初期に評した「気分屋」だからでもなく、彼女はただただ必死なのです。楽しく幸せに、いつでも。
雛菜が持っていないもの
雛菜にもしひとつ、足りない才能があるとするのならそれは、余韻を味わう能力かもしれないと、わたしは思っています。
”しあわせ”は、たとえそのものはその場で消えてしまったとしても、余韻は後に残ります。
”しあわせ”が大きければ大きいほど、余韻も濃く長くまで残って、だから人は、大きな”しあわせ”を求めることに価値を感じられる。
しかし雛菜は、もしかしたらおそらく、余韻という”しあわせの残り香”を捕まえる嗅覚が、あまり鋭くないのかもしれません。
たぶんそれを彼女も自覚はしていて、だから、視力の低い人がメガネという外部装置に頼るように、自分だけでは味わえない余韻を得るため写真を撮っているような気がします。
ただ、これはあるいは裏返しで、だからこそ目の前にある”しあわせ”を愛する力が、あんなにも強いのかもとも思います。
”しあわせの残り香”を人よりも感じられないからこそ、新しい”しあわせ”を求めて走り出す脚が、あそこまで迷いなくしなやかで。
そして、新しく捕まえた”しあわせ”も、それが消えてしまうまでの間、きっと誰より強い力で抱きしめておけるのです。