救いようのないバカと、救いようがなかったバカ
バカは大好きだが大嫌いでもある。つよいバカが歩く道は光り輝く明るい道となるが、よわいバカが歩く道は暗く儚く哀しい道となるからだ。偏よった趣味嗜好を持つ人にしか需要がない方のコンテンツ。
つよいバカとよわいバカ、フツーのバカ
自分の業界にはバカが集まりやすい吹き溜まりが所々にある。時代の流れに洗われて吹き溜まりがなくなる様子も見えるが、それはつまり「よわいバカは、もはやそこに溜まることすらできない」ということも意味している。
いったい誰が居場所ごと洗い流されて喜ぶか?
そこにいない人々だ。SHOW TIME。
まさかそこに人がいるとは思わなかったんだ――それは流された者には受け入れられない言い訳であるが、流された者も10年後に流してしまったときには同じセリフを言いがちである。
それはバカとバカの織り成す宴だから。
フツーにバカである我々には、よもや10年後に立場が逆転するなどとは想像するのも大変に困難な描画能力であり計算能力である。自営業(※必ずしも営業しているとは限らない)に勤しむみなさんの中で、いったいどれほどの人が「5年後」や「10年後」の姿を正確に下書きして選んだ線をなぞって清書し、現実に描画できるだろうか?
会社勤めのみなさんも「5年後」や「10年後」の未来を計算せよとのお達しが来て困った経験はないだろうか? 目標を定めよと。当たった試しはあるだろうか? 精度100%で? もちろん自分はない。明日のことだって、来週のことだって厳しいものだ。まあ、だから進捗ダメですと常に唸っているのだが……なぜ進捗がダメなのかというと。
バカのケツから出るナニを掃除するのに忙しいうえに、拭かなければいいケツを拭くバカがそこにいるというまったくもって救いようのないバカな話なのだ。
救いようのないバカ
かつての吹き溜まりではトイレは大盛況であり、会社がメシを食うたびにunkがキレイに流されていた。いつも誰かが掃除していた。はじめクソとして流れ着いた自分は、いつの間にやらクソからヒトに成り代わり掃除を任された。
みな懸命に便器を磨く。できれば磨く必要もなく水で流れてくれればよい。しかし、出物腫れ物所嫌わず、生物は精度100%で動けない仕様である。何も考えず水に飛び込んでクソ入りの水しぶきを上げるバカ、どうしようもなく要領が悪く狙いの外れた位置にこびりつくアホ、しまいにゃ便座上げたままハマりこんでウォシュレットを作動させ何もかも撒き散らすボケ。
クソからヒトに成り代わると、クソだったことは忘れてしまうのもヒトの性。クソだったときのことを忘れられないことをトウラマ、とヒトは言う。忘れない方がいいこともあるが、忘れねばならないこともある。
どれだけトイレの使い方を教えてもバカとアホにボケが湧いて出る。細かすぎる菌がどこにでもいるから。何も考えず慣れればガシガシ削る。もっと慣れればヨゴレの性質が分かってくる。効果的な薬品をちょんと垂らして流すだけ。ブラシは要らない。かければ、とける。仕上げにトイレットペーパーでサッとぬぐえば跡形もない。
わぁ。あれだけガンコなヨゴレだったのに。すごいや!
間違って会社に子供が来ることもある。子供なのだから仕方あるまい。ヒトだ。メンドクサイからと言って「かけたらとける」は人道にもとる。だがその子供は親のいいつけで来たのだという。だから掃除を教える。
しかしバカな子供だった。あまりにも考えなしで要領の悪く素直な子供だった。何もしなくても薬品棚にズッコケて溶けるほどにバカだった。あれほど薬は危ないから近付くなと言ったのに――しかし子供は言っても分からないしできないことは大人が予測せねばならない。予測を超えたできことは受け止めるほかない。
その少女は薬品棚をひっくり返したあと、退職する掃除夫について行った。親の手に余ることもあってか、身柄を引き取られるのだと言う。親はそれを見送った。もとより育ての親に過ぎなかったのだ。しかしその後、ふたりは道を違えた。少女は血縁のある家に戻った。
「おじさんは厳しいなと思っていたけど、一生懸命に教えてくれていることは分かったので、がんばりました」
少女から最後に届いた感想がこれだ。バカにはむずかしいことは伝わらないが、かんたんなことは伝わる。子供ゆえの知能と学習能力を思い出した。そうだった。ちょっと前、クソから這い上がってヒトになったんだっけ。
救いようがなかったバカ
だからといって、少女が掃除屋をやるのは無理があった。何をどうしようと子供であるのは事実だった。目に見えないものを吸えるダイソンも、黒光りするアレを渡せるのも作り話の中だけ。現実は薬品どころかブラシもなるべく渡さず、洗面所の拭き掃除を任せるほかなかった(水滴の吹き残しや繊維くずはあったが、ある程度は無視した)。
あのトイレで少女のちいさな手に収まる仕事が見いだせない。
いくら教えても無駄なのだから育ての親に返せば良かっただろうか。悪くはないが、別のトイレに向かうだけだろう。トイレは無限にあり、誰もが掃除要員を求めていた。なんならルンバを買えば、少女は要らない。吸っているのはゴミか、はたまた……。掃除屋ルンバ、お前は何を吸っている?
手札には限界があった。夢を描くのは楽しいが、それはそれ。
重ね重ね、バカには救いようがなかったバカなのだと思う。HMDをかぶせてイカに変身してタコと一緒に絵の具鉄砲を撃ち合う仕事が作れれば少女はたのしく「おてつだい」ができたろう。でもトイレの掃除夫にそれはむずかしかったのだ。
黒光りするピンクの掃除機でいっぱいカービィ
運命も時も人も流れていくもので。今は少年のケツを拭きながら、掃除の仕方を教えている。肉のアバターの中に隠れた少年の住むところは別次元のVR。だから本体は時間が経っても成長することはない。
どうにかしてデータを書き換えねばならない。こちらのVR世界とは映像規格が違うのでケーブルが挿さらない。彼自身が大人の姿をデザインし、モデリングし、肉体の制御プログラムを書かねばならない。
自分は画面の向こうから大人の姿を表示して、モデルを組んで、バカみたいにおおげさに肉体を動かしてみせるしかできない。果たして彼の引き取り手が現れてしまう前に、作業は間に合うだろうか?
文明のガラス製スクリーンの中にできた世界とはいえ、この無慈悲なサバンナで子供たちがひとりで生きるのはむずかしい。結局ルールは同じなのだ。たったひとりの大人で、すべての子供たちを救うのはむずかしい。だからといって、子供たちの誰かが大人にならねば子供は生まれてこない。
なぜヒトよりはるかにバカであるいきものたちが、時に我が子を見捨て、時に我が身を捨てるのか。無慈悲であり、慈悲深いのか。透明な石のドームにちょこんと配置された野生の森と草原。チリとホコリがキラキラと舞うところ。そこに住む我々は理由を思い出さねばならない。
昨日も今日も明日も、救いようのないバカがいる。誰も生きて帰れないような危ないところに行ったらいけないし、前後不覚になるほど働き詰めたらいけないし、うっかり車道に飛び出してはいけないし、食べたらいけないものを食べたらいけないのに。
それらを止められるのに救えないバカもいる。弱みを握って行かせなければいいのに、ちょっと声をかければいいだけなのに、注意深く見守るだけでいいのに、もったいなくても捨ててしまえばいいのに。
しかし我々は底の見えない泥水の中をできる範囲ですくうしかない。何も引っかからない。引っかかったときの方が危ない。見えないものを見ようとしても、今すぐ見えるようにはならない。どこかでバカが意味不明な望遠鏡を生み出すと、少し見えるようになる。底は相変わらず見えない。その繰り返し。
この小さな世界で、再び文明の火を灯すために。
だから、バカでアホで間違っていてボケるものとの縁を結んでおかねばと思わずにはいられない。黒光りするアレでうぜえ敵を撃つ。使えそうなヤツはピンク色のバキュームで吸う。おまえのちからはおれのもの。なんもなければ空気でぶっとばす。覚悟しろ。星になれ。
だってそうだろ。掃除屋ってなんかカッコいいじゃん。オラァ…ケツ出せや…拭くぞオラァ…! 加湿器を稼働して作った雰囲気に耐えかねて、いつものCHAOS HEADに永劫回帰。そもそも途中から漏れている。俺のケツは俺が拭く。俺は紙だ。ウォシュレットはいらん。
われわれが深淵を覗くとき、深淵もまたわれわれを覗いているのだ……