会津戦史 慶応4年9月16日~9月20日
9月16日(新暦10月31日)
手代木、秋月、小森は、降伏の使者となって鶴ヶ城を出発しました(異説あり)。彼らは米沢藩を頼っていったのですがその米沢藩に拘束され監禁されました。
これは会津藩の正式な降伏と受け取られなかった、とする説があります。
異説では、彼ら(そちらでは、手代木、秋月、桃澤の三人)が訪れたのは20日となっています。説によって、その場所も全然違うようです。
ひとまずここでは前説をとって16日に三人が城を出て拘束された、としておきます。
一方、城外では萱野隊がまだ奮戦していました。
9月17日(新暦11月1日)
この日、ついに萱野隊も力尽き、本郷方面へと敗走していきました。大規模な野戦としては最後の戦闘となりました。ついに鶴ヶ城は完全包囲され、四面楚歌となって落城を待つばかり。降伏の使者も戻らず、この間も西軍の攻撃は続いていました。
9月18日(新暦11月2日)
この日になってもまだ使者が戻らず、容保公は再度鈴木と川村の二人を使者として送りました。彼らは土佐藩に赴きました。ここに至り、ようやく西軍も会津の降伏について詮議することとなったようです。
9月20日(新暦11月4日)
ようやく会津藩の降伏が認められ、手代木、秋月、小森、鈴木、川村の使者五人は帰城を許されました。
彼らは、午後三時ごろ白旗を掲げ帰城(白旗を掲げたものには発砲しないとされた)し、容保公と喜徳公に報告しました。
鶴ヶ城開城まであと二日