comed(a)y(6655字)
「プラークチェッカーみたいですね」と先生は言った。
「ぷらーく……何ですか?」
「小学校でしませんでしたか? 歯の磨き残しをチェックするために使うお薬です。それを噛むと、磨き残したところがピンクに染まるんです」
「じゃあ、まだ歯にはさまってるんですね」
僕は言った。
「クレヨンですからね。私は歯科医じゃないので何とも言えませんが……気になるようでしたら、受診してくださいね。紹介状を出しておきますから」
先生の話はあまり聞いていなかった。貸してもらった手鏡に向かって口を開け、青くまだらに染まった歯を見ていた。
「もう一度お聞きしますが、飲み込んでいませんよね?」
「飲み込んだらどうなりますか?」
先生は表情一つ変えずに、手もとのタブレットをたぐり寄せた。僕を説得させたいとき、先生はすぐにインターネットに頼る。
「ここに書いてある通り、クレヨンに毒性はありません。なので、体に害はありません。だからといって、積極的に食べていいものではありませんが」
「『積極的』じゃなかったら、いいんですか?」
背中に突き刺さるような視線を感じる。リハビリ中、僕がクレヨンをかじり出したとき、あわてて制止した看護師だ。
先生は僕が何をしても眉一つ動かさないけど、看護師はそうじゃないみたい。何があっても、その場にいたこの人を責めることはしないのに。
「××さん」
先生は、ほんの少しだけ考え込むようなフリをした。(先生が本当に考え込むなんて、ありえないことだ。)
「クレヨンはおいしかったですか?」
それは、僕をとがめるわけでも煽るわけでもない、温度のない声だった。
「どちらの答えを出しても、」
僕はすでに診察室から退室しようとしていた。
「次のリハビリから、クレヨンは出さないんでしょう?」
一瞬の沈黙も介さず、先生は言った。
「絵の具もですよ」
パソコンに映し出されたカルテの隅に、『異食症』の文字が見えた。
*
一日一食。
その一食は、必ず食パンを牛乳で浸したもの。正式には、パンプディングというらしい。それ以外のものを口にすることは、ほとんどない。
卵、砂糖を深皿に入れ、そこに牛乳を注ぎ、よくかき混ぜる。白身を切った方がいいらしいけど、未だにやり方がわからない。
そこに、てきとうに千切った食パンをちらす。食パンは、六枚切りのものが丁度いい。カビさえ生えていなければ、パンがぱさぱさでも食べられるのが、パンプディングのいいところだ。
後は、電子レンジでチン。それだけ。
見た目の良さを考えたことはなく、そのせいなのか、出来上がったばかりの元食パンは、蛆を孕んだような死骸に見える。と以前先生に言ったら、「もうパンプディングは食べられないな」と苦笑いした。
フォークはないので、調理に使った箸でいただく。パンプディングはもっと洒落たものらしいけど、僕が作ったものは、いわゆる言われなきゃわからないものだ。つまり、ものすごくまずそう。肝心の味も、出来そこないのプリンのような味がする。
「でも、クレヨンに比べたらおいしい」
それは、僕でもわかる。
というか、クレヨンが『おいしそうだから』食べようとしたわけじゃない。クレヨンだったら何でもよかったわけでもない。
「どちらにせよ、わかってもらえないだろうな」
僕は、僕だけの楽園を見渡す。
1Kの楽園。ベッド、カーテン、ミニテーブル。それ以外は、何もない部屋。
ベッドカバーは濃いめの青色。カーテンは薄めの青色。ミニテーブルは淡い黄色。そして壁紙は、明るい灰色。これ以上、僕を安心させるものはない。
けれど、僕がクレヨンを――青色を貪ったのは、不安になったからだ。均衡を保っているはずの生活に、翳りが見えたような気がしたから。画材の青色を目にしたその瞬間に。
ミニテーブルの上に突っ伏し、僕は目の前の壁を見つめた。安心する色合いの壁。楽園を構成するものの一つ。それなのに。
「足りないな」
けれど、何が足りないのかは、わからなかった。
*
大人というのは、子どもより優れていて、立派な生きものらしい。常に身だしなみはよく、整理整頓が出来、敬語を正しく使うことが出来る。
以上を定説とするなら、この状況はよくわからない。
僕よりずっと年上のはずの教授は、コーヒー染みが点々としたシャツを着ていて、難なく通り抜けられるのは虫以外にいないほど研究室は雑然としていて、敬語を使っているところは見たことがない。
僕はシワのある服なんて絶対着ないし、整理整頓どころか自室にはほとんど何も置いていないし、敬語は使うべきところで使っている。
それでも、世間的には教授の方が大人で、学生の僕の方が子どもなんだ。だからといって、どうと言うわけではないんだけど。
「これの締め切りはいつだ?」
たった今提出したばかりのレポートを、教授は僕の眼前でぞんざいにぶら下げた。僕はわざともったいぶって、考えるフリをした。
「三日前です」
「今さら受け取ると思うか?」
「思ったので来ました」
「本当、いい根性してるな」
教授はいやみたらしくため息をつくと、デスクチェアに腰を下ろした。
ところどころ革が剥がれている椅子は、教授の巨大な尻により、中身のクッションが押し出されている。そのクッションが黄色いせいなのか、まるで膿のように見えて、気分が悪くなる。僕が見たいのは、こんな汚いものじゃない。
「絵を描き始めたのか?」
レポートから顔を上げずに、教授は蓋の閉まったペンで顎の先をとんとん叩いた。
「どうしてですか?」
「取れてないぞ。爪の間の絵の具」
僕の爪は、右手左手、親指人さし指中指薬指小指、全て余すところなく青色に染まっている。爪を切り、正しい手の洗い方を調べ、指先をもう片方の手のひらでもみ洗う方法もやってみた。それでも、爪に入り込んだ青色は完全には落ちなかった
「描いてないです」
「じゃあ、食ったのか」
教授は、それを書いた本人である僕にレポートの表紙を突き付けた。
「『フェルメール絵画における異食症の誘発性』……何だこれ」
「二年次のレポートとして、テーマにするには不適切でしたか」
「指摘しているのはそこじゃない。……ってことぐらい、お前もわかってるだろ」
教授が睨んでいるのは僕だけど、僕は別の方に見惚れていた。
レポートの締め切りを守らない理由。教授の研究室に入るための口実。
「そんなにこれが見たいのか」
僕が恋焦がれているそれに、無遠慮な男の手が触れる。
「触らないでください」
気付けば僕は、教授の前に立ちはだかった。
教授が僕の肩をつかまなければ、僕は彼を窓辺まで突き飛ばしていたかもしれない。教授は僕の肩をつかんだまま、父親のような面持ちで――中身は子どものくせに――僕を諭す態勢に入った。
「これは、俺の所有物だ。お前のじゃない。そして、これは同時に偽物でもある。お前が守ろうとしたのは、本物じゃないんだよ」
肩に込められた力が徐々に抜けていくのと同時に、全身に走っていた緊張も解けていった。自分の中で暴走していた何かがあるべき場所に戻っていくのを感じると、教授にもそれが伝わったのか、肩から手を離してくれた。
「無表情、無感情、無関心。三拍子そろったお前でも、この絵の前では感情的になるんだな」
それが無礼な男の手から逃れられたことで、僕はようやく心安らかに眺めることが出来た。
『絵画芸術』
画家ヨハネス・フェルメールの後期の作品。
画面の向こう側には背中を向け、自身はイーゼルに向かっている画家。そして、モデルの少女が描かれている。
画家は一昔前の道化のような格好をしており、少女は月桂樹で編まれた冠をかぶり、左手には大判の本を、左手にはトロンボーンを抱えている。イーゼルには、まだ月桂樹の冠しか描かれていない。
そして、
「少女が身に付けている、美しい青色のドレス。……僕が心を奪われたのは、この色が初めてだったんです」
「それで、食ったのか」
さっき僕が答えなかった質問を、教授はもう一度問いかけた。
「先日、うっかり青色のクレヨンを食べてしまったんです。なぜなのか、自分でもわかりません。それで、昨日は絵の具を試してみたんです。もちろん、青色です。……あ。一回目のとき、かかりつけ医はちゃんと注意してくれましたよ。ただ、僕が約束を守らなかっただけです」
話を聞いているのかいないのか、教授はレポートの一頁目をめくっては戻し、かと思えば突然最後の頁まで飛ばしたりした。
「俺から言えるのは一つ」
弄ばれていたレポートを投げ返され、僕は上手く受け取ることが出来ず床に落としてしまった。
「これは、レポートの体を成していない。ただの感想文だ。フェルメール絵画を鑑賞することで異食症が誘発された例は、お前しか聞いたことがない。誘発に『性』なんて付けるほど、誰にでも起こりうる現象とは言えない。そもそも、青色の画材を食ったことしか書いてないし、参考文献も一切ない。お前はまず、レポートの書き方から学び直せ」
僕は立ち上がることが出来ずにいた。理想的な青色を、ひさしぶりに崇めることが出来たから。
「あと、この絵が見たいからって、わざと締め切りを破るのは止めろ」
「バレてたんですか」
「……こんなレプリカでもそれ相応の値段はするが、ポストカードサイズなら学生でも買えるだろ」
「そうですね。でも、」
その大きさじゃ足りないんです。
安物の印刷じゃ満たされないんです。
僕は、何も言わなかった。それを口にしたところで、何かが変わるとは思えなかった。
何より、今日の目的は果たした。今は一刻も早く、この部屋から抜け出したい。
「ラピスラズリ」
そのことばが僕に向けられたものだと、最初は気付かなかった。
「フェルメール・ブルーの原料だ」
ドアが半分まで開いたところで、僕は思わず立ち止まった。ふり返ることはしなかった。けれど、そのまま退室することも出来なかった。
「正確には、ラピスラズリからわずかに採取出来るウルトラマリンだが……。お前が欲しいのは絵そのものじゃなく、色だろ。フェルメールが実際に使用していたものを忠実に再現出来るかは別として、それでお前は納得するんじゃないのか」
僕は、決してふり返らなかった。教授がわざわざそんな助言をすることに何の意味があるのかわからなかった。教授もそれを感じ取っているのか、それ以上は何も言わなかった。
教授が視界に入らないように、僕は注意深く後ろの方を向いた。
『絵画芸術』
これは、贋作ですらないコピー品。
それなのに、強く惹かれてしまった青色。
もしも、本物を目の前にしたら、僕はどうなってしまうんだろう。
学部棟の廊下はおそろしく清潔で――少なくとも教授の研究室に比べれば清潔で――さっきまでの会話が白昼夢のように思えた
*
顔料の他にも、揃えるものがあった。顔料と練り合わせるためのオイル。それらを混ぜ合わせるためのパレットナイフ。その他諸々。
それでも、やはりネックになるのは顔料であるウルトラマリンだった。学生が易々と手を出すには、高価すぎる。比較的安価なものもあるけど、そんなもので僕が納得出来るかどうかは、言うまでもなかった。
通帳を確認すると、十万と少し余裕があった。ただし、それは一日一食のための食費と通院費用によって半分は消えるのだけど。
先のことは考えられなかった。僕は口座から全額を下ろし、十万と少しで購入出来るウルトラマリンに目星を付けた。
顔料がアパートに届くまで、まるで恋わずらいに冒されたように、講義にも出ず、予約していた受診日のことも忘れ、一日のほとんどを布団の中で過ごした。フェルメールブルー以外のことは、何も考えられなかった。
もうすぐ、もうすぐ。
僕は爪先を痺らせながら、その日を待ち焦がれた。
インターホンが鳴らされたとき、僕はそれを天の啓示だと思った。一体どんな顔をしていたのか、ぎょっとした顔の配達員すら、幸運を運んだ天使のように見えた。
ミニテーブルの上には、あらかじめ画材店で買いそろえた道具達が、主役の到着を待ちわびていた。
厳重な包装を急いで、しかし震える指で丁寧に解いた。そして僕は、現れた小瓶に入っているそれを見た。
「待ってたよ」
けれど、これはまだ完全ではない。今からこの原石を、この手でフェルメールブルーへ昇華させるのだ。
僕は早速、大理石で出来たプレートの上に顔料の蓋を開け、小さな山を作った。そしてそれを、火山口のようなくぼみを作り、その上からオイルを注いだ。
顔料とオイルがなじむまで、少々時間を置く。僕はもう、「待ちきれない」ということはなかった。ウルトラマリンがフェルメールブルーへと変化するその過程さえ愛おしかった。
ネットで検索した画像と比較し、ある程度なじんだことがわかったので、パレットナイフで充分に混ぜ合わせた。
そして、ここからが正念場だった。今度は先の平らな練り棒に持ち替え、最低でも二十分以上、さらに滑らかにするには六十分は練り込まなければならない。このために購入したストップウォッチで時間を測り、いよいよ最終作業に入った。
顔料特有の慣れない臭いが鼻をつく。そういえば、換気するのを忘れていた。しかし、そんなことは些細なことだ。僕がずっと焦がれていたものを手にするのに比べれば、どんなことも些細なことなのだ。
密室の中、汗が額や脇の下に滲むのを感じる。季節は夏を忘れかけているはずなのに。それとも、自分の内なる情熱が自身を燃やしつくそうとしているのだろうか。
どれくらい経ったのか、途中から正確な時間を測るのも忘れていた。練り棒を握りしめていた手が痛みと疲労を訴え始めると、僕はようやく我に返った。
思わず、目を見張った。荒くなった息だけが、この狭い楽園に響く。
これだ。
僕は思った。
ようやく、ここまでたどり着いた。
幼児向けのクレヨンではない、チューブに入った安物の絵の具でもない。
本物の青が、そこにあった。
プレートいっぱいに広がったそれは、全ての光を吸収してしまいかねない重量感を持っていた。
プレートに指を這わせ、ねっとりとからみ付いたそれを、急いで口に入れた。
味はわからなかった。僕は、次から次へと口に入れた。それは、決して良い食感とはいえなかった。食物ではないのだから、当然だ。それなのに、ああ、なぜこんなに僕を惑わせるのだろう?
突然、目の前がブラックアウトした。部屋ではなく、自分の電源が落ちる感覚。そんな暗闇が茫漠と広がっている。たしかなのは、口当たりの悪い絵の具だけ。
「一般用のクレヨンや絵の具に毒性はありません」
いつか、先生が言っていたことを思い出す。
「ただし、専門家用の絵の具は中毒になる危険性があります」
つまるところ、今の僕は危険な状態ということだ。けれど、僕は努めて冷静でいようとした。
ずっと恋焦がれていたものと共に最期を迎えられるなら、本望だ。
そして僕は、意識を失った。
*
「あなた、あなた」
目を覚ますと、私の愛する風景が開けた窓からのぞけた。
『デルフトの眺望』
スヌー川。
今日は、さざ波一つ立っていない。
これは、良い兆候なのか。それとも、嵐も前の前触れなのか。
「あなた。……ようやく目を覚ましたのね。お寝坊さん」
「カタリーナ」
私の妻。
愛する妻。
年老いても、その微笑みだけは変わることなく。
「ずいぶん長い夢を見ていたよ」
「夢? どんな夢なのか、教えてもらえるかしら?」
「ああ。……私は、異国の人間で、若者だった。精神を病んでいた。そして」
「そして?」
私は、彼女に微笑みかけた。
「青にとり憑かれていた」
彼女は一瞬だけ目を見開くと、ふふと笑った。
「夢の中でもあなたは変わらないのね」
「ああ。……私は私以外にはなれないようだ」
「そうね、あなたはあなただけなのよ。……『ヨハネス・フェルメール』」
そうそう、プディングを作ったのよ。あなたが具合を悪くしているんじゃないかと思ってね……。
夢から覚めたばかりだからなのか? 彼女の声がずいぶん遠くから聞こえる。
しかし、この違和感もすぐに消えるだろう。私は、現実に戻ってきたのだから。
彼女が部屋を出ていこうとしたところで、私は頼み事をすることにした。
「何かしら?」
「そこの絵を……もっと近くに。壁ではなくこのベッドに、立てかけてくれないか」
彼女は「しょうがない人」と肩をすくめながら、その肩幅よりほんの少し狭いそれを、引きずりながら移動してくれた。
「本当に、この絵が好きなのね」
「そうだとも。……そばにおいておくよ。私が床から動けなくなる、その日まで」
彼女が部屋を出ていった後、絵のカンヴァスの端に触れた。
『絵画芸術』
私の愛する絵。
私の愛する青。
【参考文献】
小林頼子『フェルメール論――神話解体の試み』(八坂書房、1988年)
林綾野『フェルメールの食卓 暮らしとレシピ』(講談社、2011年)
ノルベルト・シュナイダー『フェルメール NBS-J』(タッシェン・ジャパン、2000年)