さなかのるすばん(1100字)
「ただいま」
「おかえり。何してたの、今まで」
玄関で迎えた俺に母さんは答えず、「疲れちゃった」と上がり框に腰を下ろした。
「中、入んなよ。そこで休まなくても」
「あんたも座んなさいよ。親孝行」
「ここで?」
と口では言いつつも、『親孝行』の言葉に弱い俺は、素直に母さんの隣に座った。
「母さん、どこまで行って」「懐かしいわね」
母さんは、遠くを見る目で言った。
「クロがいなくなったときも、こうして二人で待ってたわね」
クロは、昔飼っていた猫だ。俺が小学生の頃、突然行方がわからなくなった。夜の内に家を抜け出したらしい。翌日、母さんと近所中を探し回ったけど、見つからなかった。
クロは俺が生まれる前から家にいて、その頃にはすでに高齢だった。死ぬところを見られたくなくて家出したんだと、近所の大人達は言った。でも、俺はその話を信じなかった。
その日の夜、俺は玄関にいた。戸の鍵は開けたままで。クロの好物の缶詰を用意して。クロがいつ帰ってきてもいいように。
母さんは、俺を止めなかった。ただ、寒くないように俺を毛布でくるんで、俺が眠ってしまうまで一緒に待ってくれた。
「本当、あんたって頑固よね」
「どの口が言うんだか」
ふいに、母さんは俺をじっと見つめた。その目は変わらず優しかったけど、どこか悲しそうでもあった。
「クロは、もう死んじゃったのよ」
「? うん」
そんなこと、あれから十年以上経っているんだから、さすがに俺でもわかる。でも、急にどうしたんだろう。
「私の」母さんは言った。「私のことは、待たなくてよかったのよ」
「母さん?」
その瞬間、これまでの記憶が、頭の中へ一気になだれ込んできた。
母さんが、女手一つで俺を育ててくれたこと。今年社会人になった俺は、「やっと親孝行できる」と思ったこと。入社式から帰ってきた直後、母さんの訃報を知らされたこと。母さんが、俺の入社祝いにケーキを買った帰り道、事故に遭ったこと。通夜も葬儀も終えても、母さんが亡くなった実感がなかったこと。それから、入ったばかりの会社にも行かず、母さんの帰りを待ち続けたこと。「今に帰ってくる」と飲まず食わずで待ち続けて。
俺は、背後で腐りかけている自分の死体をふり返った。そうだった、俺は。
「ただいま」母さんは言った。「親孝行なんて。元気でいてくれるだけで、よかったのに」
「おかえり」俺も言った。「親不孝でごめん」
死んでいるのに、涙が溢れてしょうがなかった。母さんは、そんな俺の頭を、子どもの頃のように撫でてくれた。
「本当に頑固で、母親思いの優しい子ね」
母さんに伝えたいことは、たくさんあった。でも、しゃくり上げている俺が言えるのは、これだけだった。
「おかえりなさい」(了)
追記:
公募ガイドの『第76回 TO-BE小説工房』に応募したものです。(そして、落選したものです。)南無三。
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