カトルとタタン
「タタン、それは後回しにして」
今からやろうとしていたことを遮るのは、人をがっかりさせるのだから、やめておきましょうね。
カトルは前に(本当にずいぶんと前のことだけど)そう言っていたから、僕はがっかりした。
カトルの言っていることにそっぽを向いてもよかったけど、さっきまでしていたことは、もうあんまりおもしろそうに見えなかった。これはもしかしたら、とんでもなくすてきなものだったかもしれないのに。
台所に行ってみると、カトルはカトルで別のすてきなものをつくっていた。カトルの左手に、さとうが少しこびりついている。
「小麦粉、バター、たまご……」
ぶつぶつとつぶやくカトルに、とんとんとん、とぼくはあいづちを打つ。
カトルは、そばにやって来たぼくに気がつくと、きゅっと上がっていた目じりをゆるませた。
「タタン、ボウルを持ってきて。錫のよ。あまり傷がついていないものにして。それが終わったら、そこのカップに入ってる牛乳をあたためて。火にかけなくていいわ。手のひらであたためればいいから。それから、庭のガーベラの花びらを一枚だけ。とびきり色が薄いのを選んでね……」
カトルはやつぎ早に指示を出した。こういうのはあんまり好きじゃないな、とぼくは思った。
今日のカトルは、焼きすぎたクッキーみたいだ。ぼくは、ちょっと焦げたところがあるのも好きだけど。
牛乳を手のひらでくるんでいると、なんだかカッコウのたまごをあたためているみたいだ。この中には、ぼくの知らない場所で生まれたものが、ひっそりと息をしている。手のひらに、なにかの呼吸がぶつかるのを感じる。
ここから出して、かな。それとも、そこに壁があることに安心しているかもしれない……。
「あ」
指と指のすきまから、白い羽が一本、勢いよく突き出た。
あわてて手を放すと、白い鳥が一羽、大きく翼を広げて飛び立っていった。
鳩よりずっと白くて、鷹よりもっとたくましい、はるか彼方へとけていく鳥だ。
鳥は、少しだけ開いていた天窓をあっというまに抜けて、太陽の影に重なると見えなくなった。本当に、自由の中にとけていったかもしれない。
カトルも、ぼくとおんなじ顔をしていた。ぼくはカトルに叱られる前に、ボウルを頭にかぶった。この世で一番こわいことは、カトルが怒ることだ。
「牛乳なくなっちゃった」
「いいのよ」
カトルのやさしい声は、ちぢこまったぼくをなぐさめてくれた。本当は、ぼくがなにも見えなくて、ふらふらしていたからだと思うけど。
でも、ボウルをかぶっていると安心する。岩石の巨人が腕を落っことしても、守ってくれそうな気がする。
まっくらな中でミノムシみたいにじっとしていると、ぼくの好きな匂いがした。さとうとバターを混ぜているときの匂いだ。
カトルがぼくの好きなことをしているから、ボウルを外した。カトルはぜんぜん怒ってなかった。
ぼくはカトルにくっついて、ボウルに鼻を近づけた。ふんふんと鼻をならす。
「めっ」
カトルはいたずらする鼻をぐいーとつまんだ。ぼくはそのままおとなしく、ボウルに耳をすませる。
ざらざらしているのに安心する音なんて、この音しかないとぼくは思っている。世界に許されている音。
「父さんにも食べてもらうの?」
ぼくはふと気になって聞いてみた。
「うん……ううん」
カトルはあいまいな返事をした。
「お父さまにはまだ、ね。だから、これはないしょよ」
ないしょ。
そういえば、『ないしょ』は魔法のスパイスだって、タシルが言っていた。
昔はよく、カトルが作ってくれたクッキーを、小麦の世話をしているタシルのところに持っていっていた。
「他の人にわたすものを食べちゃいけません」とカトルに言いつけられていたけど、「お前も使い走りで大変だなあ」とタシルは『ないしょ』でぼくにもクッキーを分けてくれた。
ぼくがカトルの言いつけを思い出して断ろうとすると、カトルに『ないしょ』で食べるから、もっとおいしくなってるぞと得意になって、食べさせてくれた。タシルと食べたクッキーはとってもおいしかった。
タシル。
なんでも知っていたタシル。
今は、天国にいるタシル。
「どうしてぼくたちだけ船に乗ったの?」
ぼくは、庭先のガーベラを見ていた。
モンシロチョウがひらひらと飛んできて、花びらに止まった。とびきり色の薄い花びら。花びらはモンシロチョウの羽とよく似ていて、目に涙をためていたら、間違えてもぎとってしまいそうだ。
「タシルもテトラも、死んでいい人たちじゃなかったよ。ぼくとカトルだけじゃ、あの船は広すぎたよ。他の、ぼくたちが知らない人たちだって。みんなみんな、助けてあげられたよ。それにね、」
カトルはそっと、ぼくのくちびるにふれた。怒ってはいないけど、すごく悲しい顔をしていた。ぼくは、カトルを悲しませてしまったことが悲しくて、目をぎゅっとつむった。
少しだけ、あまい匂いがする。バターの匂いでも牛乳の匂いでもない。カトルにさわられているときだけ、この匂いがする。
カトルは、きれいな顔をしている。
カトルはどんなときでもきれいだ。苦しい思いをしているときでさえきれいだから、ぼくはそのことを考えると悲しくなる。
カトルは幸せの象徴だから、ぼくは子どもの象徴だから、父さんがそれを塗りつぶさないかぎり、ぼくたちはあたたかい世界の中心にいられる。いることが、できてしまう。
それまでに生まれた悲しみは、水底に沈めたまま。
「今日は天気がいいから、外で食べましょう。タタン、これが焼き上がるまでしっかりと見張っておいてね」
カトルはそう言うと、台所の奥へ引っこんだ。
『ないしょ』のお菓子には『ないしょ』の紅茶を淹れるのが、ぼくとカトルの『しきたり』だ。『しきたり』は、父さんだって知らない。
父さんに『ないしょ』にしていることは、たくさんある。
カトルに『ないしょ』にしていることは、あんまりない。
今のところは、ひとつしかない。それも、もうすぐ『ないしょ』じゃなくなる。
さっきはちょっとだけ(本当にちょっとだけだよ)どうでもよくなっちゃったけど、やっぱりカトルに見せたくなった。
この世で一番うれしいことは、カトルが笑うことだ。
「タタン、紅茶はどっちがいい?」
「カトルとおんなじのがいい」
遠くの方で、鳥が羽ばたく音がした。今まさに地面を蹴って、空高く舞い上がる音だ。牛乳が、こっちに戻ってきたんだろうか。
あいにく、君の出番はなくなったよと思う。もうオーブンの中でいい匂いが立ち始めているから。
いや、君には新しい役目ができるかもしれない。ぼくがちょうど、今の君にとっても似合いそうなものを作ったところだから。
カトル、見て見て。
ぼく、海をつくったんだよ。