亡く羊(11340字)
1.コース料理の説明
「オードヴルのベイクドポテトには、骨がございます」と、ギャルソンは説明した。
「ランチでは取り除いてご提供しているのですが、ディナーではそのままお出ししております」
「ここが出すのは、パンじゃなくて、米料理だったかしら? リゾットとドリアは、どちらがおすすめなの?」
「どちらも……と申し上げたいところですが、本日はリゾットをおすすめします」
「では、リゾットを」
「かしこまりました」
目礼のつもりなのか、ギャルソンは妻と私の顔を順繰りに窺った。それぞれに向けられた視線の質が異なっていたのは、私の思い過ごしだろうか。
しかし、彼の視線の行方は、最後は妻に止まった。彼女は、彼が何かを欲しているのを察したようだった。
「本日のメインは?」妻は、望み通りのものを彼にくれてやった。
「はい。しがくのうさはんのうひんかがくいく」ギャルソンは、待ちかねていたように威勢よく返事をした。
「スープはございません。デザートもございません。当店のコース料理は、大変シンプルな作りになっております。お出しする品は、三品のみです。……全ては、メインディッシュのために。それでは、どうぞお楽しみください」
ようやく、ギャルソンは下がった。彼の口元には、満足を孕んだ笑みが浮き上がっていた。すでに、己の役目は全うしたとでもいうように。
妻は、終始微笑で対応した。私は、終始緘黙していた。何分、コース料理というものは初めてなので、何から何まで妻に任せることにしたのだ。
そんな私でも、見世物小屋の前口上のようなギャルソンの物言いに、説明しようのない違和感を覚えた。しかし、その違和感を具体的に指摘することはできなかった。その上、無理に思い出そうとすればするほど、霧に見舞われてしまったように、自分の現在地まで見失いかけるのだった。
それは、この部屋のせいもあるのかもしれない。
ここがレストランの個室だと教えられなければ、何かしらの控室だと思い込んでしまうところだ。ギャルソンの物言いが芝居じみていたのだから、なおさらだ。
床から壁、天井に至るまで、何もかもが同じ色。ほぼ白に近い黄色一色。窓一つなく、どこからどこまでが床で壁で天井なのか、境目が非常にあいまいだった。
テーブルは二人掛けだが、脚の太さに比べ、天板は妙に狭い。空間が巨大に見えることもあり、まっ先に目にしたそれを椅子だと誤ったほど。天板は、二人分の皿が置かれれば、すぐにいっぱいになりそうだ。肘を休める場所すら確保できない。
「どうなさったの?」
妻は、ここを訪れたときから、表情一つ変えていない。
「なんでもない」
私は、いかにも『なんでもない』フリをしてみせた。
実際に『なんでもない』ことかもしれないのだ。そもそも私は、今日起こりうるあらゆることを、妻に任せると決めているのだ。
妻は、至って平静だ。それならば、私が覚えた違和感も大したことではない。万事妻に任せておけば、何も問題はない。
それに、信頼のおける妻を眺めていると、先に覚えた違和感が、本当に『なんでもない』ことのように思えてくるのだった。
身内の贔屓目ではなく、妻は美しい女だ。
切れ長の目に、強い意志を秘める瞳。鼻筋は通っており、その下にある唇は、端がきりりと引き締まっている。真っ黒な髪は短く刈り上げてあるが、遠目に見てもその艶やかさがわかる。
彼女はフリルも何も付いていないさっぱりしたブラウスを身に付けており、それは第二ボタンまで外され、綺麗に整った鎖骨を惜しみなくさらけ出していた。
彼女の髪色と同じ色のタイトスカートは、腰から縦に五連並んでいるボタンが、その内二つ外されており、彼女の左膝をちらりと覗かせていた。
ハイヒールのパンプスも同じく真っ黒なエナメル革で、まるで靴墨を塗りたくったような光沢を放っていた。
年の頃は私と同じはずだが、一回り下だと紹介しても疑われないほど、肌には年相応の皺もしみも見当たらない。しかし、年相応に老いている私より、よほど威厳があった。少々さっぱりし過ぎている格好も、彼女の美しさをより引き出すものだった。
妻の目は、眉は鼻は唇は、全てがあるべき場所に位置している。そして、彼女の立ち振る舞いは、ヴィーナスの一挙手一投足に等しい。
私は、そんな彼女とは真逆だ。
私が身に付けているのは、かつては一張羅であると自慢できたが、しかし現役時代はとっくに過ぎ去ったスーツ。布地はすっかりくたびれ、元が何色だったのかわからないほど日焼けしている。たしか、チャコールグレーとかいう洒落た名前だったような。もちろん、「今となっては昔のことだが」である。
妻はもちろん人間だが、その夫がまた人間である私であることには、常々疑問を抱えていた。同時に、自分以外の世の男に対して優越感を覚えてもいた。私には、自分は特別な人間に選ばれた特別な人間なんだと、少々過信するきらいがあった。けれど、妻の美しさを考えれば、それは仕方ないことだろう。
私は、妻に微笑を返してみせた。全身の緊張を解き、ゆったりと構え、彼女にふさわしい男らしく。
2.ベイクドポテト(骨付き)
「お待たせいたしました。ベイクドポテトでございます」
ふいに現れたギャルソンに、私の肩は思わず上がってしまった。妻は微笑を崩さないが、私は恥をかかされた気になり、ギャルソンを睨みつけてやろうと思ったが、その姿はすでにどこにもなかった。
テーブルの上には、まっさらな平皿が二枚置かれ(やはり、テーブルはそれでいっぱいになった)、さらにその上には皮ごと焼き上がったじゃがいもが一つずつ。
運ばれたベイクドポテトは、ほとんど皮が剥がれかけており、そこから立ち上る湯気と、皮自体のこうばしさが食欲をそそる。
しかし、ソースはおろか、塩すらかかっていなかった。まるで、己が立ち上がっていることが、それ自身の個性だというように。
そう、立ち上がっていたのだ。
本来ベイクドポテトというものは、縦長のじゃがいもに、適度に切り込みを入れ、ごろんと横たわっているものじゃないのか。
なぜ、このじゃがいもは自立しているんだ?
一見した限りでは、底を薄くスライスして立ち上がらせているように見えた。しかし、件の底をよく見てみると、じゃがいもの下の方に(芋に上も下も無いはずなのだが)、左右に一つずつこぶが出ていることに気付いた。指先ほどの、小さなこぶだ。
そのこぶは、芽が肥大したものだと思ったが、どうも違うらしい。明らかに、内部から何かに押し出されることで形成されている。〝何か〟の正体は、すでにギャルソンから聞かされている。
じゃがいもは、あまりにも立派に仁王立ちしているため、ナイフもフォークも入れにくい。いっそのこと横にしてしまおうかと考えたが、それは誇り高きこの芋を冒涜する行為になりうるのではないか。
私は、正直に頭からすとんとナイフを落とした。そして、刃が一ミリにも満たないところで、かつんと何かに当たった。
これが、骨か。
つまるところ、このじゃがいもは頭の天辺から爪先まで、骨が通っていることになる(頭だの爪先だの、芋相手に使うべき言葉ではないのはわかっているが、骨が存在する以上、そのような言い方になる)。
当然のことだが、骨というものは硬く、頭の天辺からすとんと刃を入れることは叶わないようだ。そのため、天辺からほんの少し位置をずらし、骨から身を削ぎ落とすように刃を落とした。
すると、カットされた半分は皿の上に倒れ、もう半分はなお自立したまま、残りの身の中に骨を埋めていた。まるで、標本のようだ。
私は、骨付きじゃがいもの標本を、じっくり観察し始めた。
じゃがいもの天辺から、骨は始まっている。じゃがいもの骨というからには、さぞ奇抜な形をしているだろうと思っていたのだが、魚の骨と大差なかった。
実際に魚の骨と比較するなら、芋に頭部は存在しないので、椎骨から始まっていることになる。椎骨は、まるで自らの肉を食い破るように、皮の表面ぎりぎりまで先の鋭いそれを伸ばしていた。
そして、例の二つのこぶも、やはり骨だった。
魚で例えるなら尾に当たる部分だが、そこだけ全く異なる生物の様相を呈していた。こぶに当たる骨だけ、異様に太かったのだ。まるで、人間の肘関節のように骨の先が丸くなっている。自立するためのこぶなのだから、他の部位の骨と異なるのは、当然と言えば当然だが。
当然?
当然なのか?
芋に骨が存在することが?
生物は運動せざるをえないから、骨を必要とする。膝関節を曲げ、爪先で地面をつかむことで、初めて歩行が可能になるのだから。
しかし、この芋はどうだ。本来、自立する必要すらない芋が――。
そこで、頭の天辺にぴりりとしたものを感じた。じゃがいもではない、私の頭だ。
私は、甘んじてぴりりとしたものを受け止める。じゃがいもの観察に夢中になっている私を、妻は咎めたいのだろう。
たしかに、先までの私の行為は稚拙だった。ディナーにはふさわしくない振る舞いだった。
私は心から反省し、観察するのではなく食べるために提供されたベイクドポテトを、まずは皿の上に倒れた骨のない身からいただくことにした。
それ以上はカットせず、そのままかぶりつく。少々冷めていたが、栗色のそれは、甘みが強く旨かった。本当に、栗を食べているようだ。これだけなら、どこにでもあるじゃがいもなのだが。
そして私は、まだ自立している――骨の埋まっている片割れにとりかかった。
まずは、骨を取り除かなければならない。小骨だらけの魚よりは容易だと思ったのだが、身のほとんどは骨にみっちり付いていた。あっさり剥がれるものと思っていた私は、「身だけは、どこにでもあるじゃがいも」との認識を改めた。骨が存在する限り、これは生物と同等なのだ。
まるで土中の土偶を掘り起こすように、ナイフとフォークをスコップのように扱いながら、私は骨の除去に苦心した。
「はしたない」
鶴の一声、ならぬ妻の一喝。
妻の皿を見ると、じゃがいもの下半分は生前の姿、上半分は骨が剥き出しの姿となっていた。妻は、私のように半分に割ることなく、器用に上から少しずつナイフを入れていたのだ。飛び出ている骨に身が一つも付いていないことが、何よりの証拠だ。
「なぜ、骨を抜こうとしているのです? せっかくの骨付きですのに」
「なぜって、骨があると食べにくいじゃないか」
「骨に付いた身こそ至高だというのに……何だってそうでしょう?」
いよいよ、妻の皿は二つのこぶを残すのみとなった。彼女は、骨を一切倒すことなく、綺麗に食べ切るのだろう。
一方私の皿では、骨が埋まっている片割れに、まだ半分以上身が付いていた。フォークを適当に刺し、引き上げてみたが、その爪には欠片すら付いていなかった。
ベイクドポテトが冷え切ってしまったことを悟り、私はナイフからもフォークからも手を離した。冷めてしまった芋ほど、まずいものはない。
3.レモンのリゾット
「レモンのリゾットでございます」
気付けば、テーブルの傍らにギャルソンが立っていた。
「メインではございませんが、米料理は当店自慢の品の一つです」
彼は、骨だけ残された妻の皿と(骨は、子どもがねぶったように綺麗だった)身をいじりすぎたことで、ぼろぼろとだまになったじゃがいもの乗った私の皿を下げ、新たな皿を置いた。
私は、ギャルソンの態度にいささか不満を持った。
通常であれば、皿の上が片付いていなければ――もっとも、私はそれ以上食べる気はなかったが――下げるか否か、まず客に確認するものではないか? それ以前に、前の皿を下げる前に、次の皿を置くとはどういうことだ?
しかし、それらは憤りのおまけのようなもので、私が何より腹立たしいのは、彼が注意を払っているのが妻だけだということだ。なぜなら、彼は妻の皿の状態を確認し、次の皿を出す機会を窺ったはずなのだから。私の皿の上のことなど、どうでもよく。
たしかに私は、この場にふさわしくない輩だろう。食事中妻に窘められ、一品目からまともに食べることができなかった。
そんな私に比べ、妻はなんと品の良い客だろう。不遜なギャルソンにとって、この上ない上客だろう!
自らの皮肉を以て自らを慰め、私はなんとか第二の皿に向き合った。
さて、『当店自慢』のリゾットは、一見したところ、『当店自慢』とは思えない代物だった(そもそも私は、リゾットを食した経験がろくにないのだが)。
眼前にあるのは、リゾットというより、ただの粥だ。やや黄色っぽいこと、少々水気が多すぎることが、粥とは異なる点だろうか(それこそが、リゾットと粥の差異かもしれないが)。
そこで私は、先までの失態を思い出し、頭を横に振った。考えるな、考えるな。思考を放棄することで、やっと皿に集中できるのだ。多少の疑問はあっても、詮索はなしだ。
しかし、スプーンを皿の中に差し込んだところで、私は思わず声を上げてしまった。
「具が入ってないぞ」
『当店自慢』と謳っているのだから、新鮮な海鮮なり採れ立ての野菜なり使用されているのかと思ったが、とんだ拍子抜けだ。
いや、いや。思い出せ。これは、リゾットだ。つまり、リゾットの核である米こそが、最上級なのではないか? 私は再び、リゾットの生態を探ろうとする。
……生態? なぜ、生態などという言葉は出てくる? それは、先の皿のじゃがいもに骨があり、つまり、あれを生物だと定義するのなら、このリゾットも生物である可能性が、
「あなた」
恐れていたことが、再び起こった。私には、妻をちらりと一瞥する余裕もなかった。
「レモンのリゾットをご存知ないの?」
妻は言った。
「あまりかちゃかちゃかき混ぜないでちょうだい。はしたないわ」
私はさすがに文句の一つも言いたくなったが、妻の言い分は正論で固められているので、崩しようがない。
私は改めて、眼前の皿を見据えた。この場に誤っていることがあるとすれば、それは私に他ならないと、自らに言い聞かせる。彼女が間違いを犯すことなど、決してないのだから。
そう。この皿は、レモンのリゾットだ。ギャルソンの言っていた通り、『当店自慢』の皿だ。黄色がかっているのは、レモンを余すことなく使用しているためだ。そのレモンが売りならば、他の具材は必要ないはずだ。
これは、ごくごく単純で簡素な皿なのだ。この後にメインディッシュが控えていることを考えれば、丁度いい一皿なのかもしれない。コース料理というものは、そこまで考えられているのだ。妻が選んだ店なら、なおさらだ。
それにしても、先の皿は黄色。現在の皿も黄色。彩りが、あまりにも単調すぎないだろうか。ギャルソンの説明した通り「大変シンプルな作りになっている」コース料理とはいえ、舌だけではなく目でも楽しめるものにしてくれればいいものを(私はまだ、何一つ楽しめていないが)パセリすら、振りかけられていないとは。
いや、いや。「思考は放棄してしまえ」と決めたではないか。これ以上、疑問は持たないと。
そう、このコース料理に色どりは不要なのだ。単純で簡素なものを極めれば、自然とそうなるのだ。全ては、メインディッシュのために。
私は腰を据えて、リゾットにとりかかることにした。そして私の決意は、すぐに頓挫することになる。
リゾットを口に近付ければ近付けるほど、生臭さがぷんと鼻をつくのだ。その臭みは米のものでも、ましてやレモンのものでもない。むしろ、レモンは臭みを消す作用がなかっただろうか?
疑念は次々に生じるばかりだが、これ以上品のない客でいるわけにもいかない。
おそらく、リゾットというものには、多少の生臭さは付きものなのだろう。くさやなども、臭いは強烈だが旨いものだ。このリゾットも、おそらく、それと同じ、
スプーンの背が舌に触れた瞬間、私は嘔吐した。リゾットもスプーンも、ベイクドポテトすら、胃に収めていたものが全部流れ出た。流れ出た先は、リゾットの皿。今度は、一口もまともに食べることができなかった。
飲み込んでいないはずなのだが、リゾットの生臭さは口中に居座り続け、しばらく嘔気が治まらなかった。出すものがなくなっても、胃液は容赦なく私の口中と眼前を汚す。
妻は、私の始終を無言で見下していた。もはや、言葉は不要とでもいうように。私は、今ここで言葉を尽くさねばならないというのに。
「何だこれは」
私は憤る。
「これは米ではない。脂肪か? 豚の脂肪か? 私は脂肪の生煮えを食わされたのか?」
「あなた」
妻は、まるで子どもを叱りつけるように私を呼ぶ。私は、そこまで立場が下がってしまったらしい。
「さっきから、何をおっしゃっているのです? 一体、どうしてしまったというの?」
妻は表情一つ変えずリゾットをたいらげ、皿はほぼ空になっている。私は、妻の味覚がおかしいのか、狂っているのは自分なのか、判別ができなくなっていた。
いや、いや。味覚云々ではなく、おかしいのは私の皿なのか? 私の皿は何の餌にもならない屑同然の代物だが、妻の皿は〝当店自慢〟のリゾットなのかもしれない。
確かめたいところだが、私の口中は酸っぱいばかりで、おそらく何を食しても酸っぱいばかりで、妻の皿を試食したところでまともな判断が下せるとは思えなかった。
「いかがなさいましたか?」
そのとき、頭上で声がした。確かめるまでもなく、例のギャルソンだ。
彼は涼やかな声に違わず、涼やかな顔をしていた。「いかがなさいましたか?」などといかにも私を気遣っているようだが、私に、ましてやテーブルの上の惨状に一瞥もくれず、その視線は変わらず妻に注がれている。私だけの、美しい妻に。
私は思わず、彼の整った襟元をつかんでいた。
「どういうことだ! なぜ私のことは、客として扱わないんだ! マナーの一つも身に付けていない客は、客に値しないということか? だから、餌にならないものまで食わされているのか? 妻と同じものを私にも出せばいいものを」
そこで私は、恐ろしい事実に気付いた。ギャルソンは私に、微塵の関心も抱いていないことに。
彼が私に注意を払わないのは、払うまでもないからだ。つかみかかっている私を振り払うこともしなければ、苦痛に顔を歪めることさえしない。実際に、怒りも嘲りも抱いていないんだろう。私への関心が無に等しいなら。
私が見ていない内にやりとりでもしたのか、「では、メインディッシュをお持ちしますね」ギャルソンは皿を空にした妻に微笑を浮かべた。
今度は、次の皿と同時ではなく、あらかじめ前の皿は下げられた。私の吐瀉物は目を向けられることなく、片付けられることもなかった。
私は空回りした怒りを持て余し、途方に暮れた。口中に溢れ出る唾が、私をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。飲み込むことすらできないそれを、私は口の端からこぼれるに任せ、爪先が汚れた溜まりに浸り始めた。
ふいに、妻が「ふふ」と声に出して笑ったことで、私は我に返った。彼女は、待ちに待ったメインディッシュを、今か今かと焦がれていた。私はそんな彼女を見ると、何もかもがバカバカしくなり、崩れ落ちるように自分の席に座った。
正面に座る妻。
比類なき美しい妻。
どうしてこんなに美しい女が、私の妻に――。
ふいに訪れた疑念は、妻への信頼で縫われ、閉じられていた私の記憶を切り裂いた。その中には、とても恐ろしく、重要な事実が隠されていた。
私は独り身だ。私に妻などいなかった。では、目の前にいるこの女は誰なんだ?
私は、これまでの経緯を思い出そうとした。しかし、いくら記憶をたぐり寄せようとしても、その始まりは、ギャルソンがコース料理を説明するところからだ。
私に、それ以前の記憶は存在しないのか? なぜ、私はこの場にいるのだ? そもそも、この場は何なのだ? ギャルソンは何者なのだ? 妻は何者なのだ? そして私は、
「お待たせいたしました」
気付いたときには、ギャルソンが現れている。私は、彼のさらに背後を見た。どこかへ続くはずの扉は、どこにもなかった。
最初から? なぜ、私は気付かなかったのだ?
4.メインディッシュ
「本日のメインディッシュでございます」
ギャルソンは、皿を注意深くテーブルの上に置いた。私をいない者として扱っているくせに、皿だけはきっちり用意されている。
皿の下で、片付けられなかった吐瀉物が――先に登場し、姿も形も変えた二皿が、さらに潰れる音がした。捨て置かれたそれらの臭いが、室内に充満し始める。
すでに汚れている私は、それがどれだけ汚いのか、どれだけ臭いのかわからない。テーブルの上の悲惨な状況を悲惨だと思わず、むしろこれが自然な状況なのだと思い始めた。
「まあ、おいしそう」
妻は目を輝かせ、早速銀器を構えていた。そう、おかしなことなど何もないのだ。
私も、眼前の皿を見下ろす。
「全ては、メインディッシュのために」
そのメインディッシュは、目に見えなかった。
皿の上には何も乗せられていない。しかし、妻には見えているのだから、間違いがあるとすれば、それはやはり私なのだ。
私がやっとの思いで銀器に触れる頃、妻はすでに、見えない何かにナイフを入れていた。刃は皿の表面を擦っただけだったが、彼女は確実な手ごたえを感じていた(ように見えた)。その証拠に、一口大にカットされたらしいソレを、彼女は的確にフォークに刺した(ように見えた)。
私は、間違っている私なりに、何が起こっているのか、慎重に見極めようとした。しかし、妻がソレを咀嚼した瞬間、私の中で張られていた虚勢が瓦解する思いがした。
その咀嚼音は、この世のものとは思えない、何にも例えがたい音だった。
がりがり。ごりごり。ぴちゃぴちゃ。くちゃくちゃ……。だめだ、どれにも当てはまらない。
人が最も恐怖するのは、未知だ。私が知っている音の中で、当てはまるものが一つでもあれば、安堵することができるのに。間違っている私は、この音を何かの音に同定することができない。
私には耐えがたいものでも、妻には心地よい響きであるようだ。彼女は、心ゆくまでメインディッシュを楽しんでいる。まるで子どものように、「ああ、たまらない」という風に頬をほころばせたその表情は、本日最上の微笑みだ。
「召し上がらないの?」
その微笑みを浮かべたまま、妻が私を見た。
待望のメインディッシュをさておき、恥を塗りに塗った私に、その目を私に向けてくれるとは。それが、私への気遣いではなく、メインディッシュを蔑ろにされることへの不満だとしても。
当の私の指先は、銀器に触れたままだった。震えが爪の先まで走っているが、とにかく私はそれらをつかんだ。緊張のあまり、誤って柄ではなく刀身を持つところだった。
皿の上のソレは依然として見えないが、要は妻と同じように振る舞えばいいのだ。
私は、ソレにナイフを入れようとする。妻は皿の中心に刃を入れたはずだから、私も同じように。しかし、手ごたえを感じることはできない。狙いを外してしまったのか、もしくは、ナイフはきちんと仕事をしているが、私がわかっていないだけなのか。
「あなたは、ふざけているのですか?」
妻から、再三の叱責。
「ソレは、もっと下にあるでしょう? まさか、見えないわけじゃあるまいし」
その通りだ、妻よ。私は見えないのだ。私は、間違っているがゆえに見えないのだ。しかし、お前の夫である私が、それを言い出すことができるだろうか?
いずれにせよ、私はソレをカットすることに失敗したらしい。ならば、成功するまでくり返せばいいだけだ。気付けば、妻は「下、もっと下」とぶつぶつつぶやいている。いや、いや。つぶやいているのは、私なのか? そうだ。彼女が、ぶつぶつと陰気なことをするはずがない。
最後には、皿ごど切り刻むように、ナイフを何度も前後に引いた。皿の表面に、かすかに傷が付く。
変わらず、何の感触もない。それでも、妻は何も言わないのだから、私は的を射ることができたのだろう。
カットされたはずのソレにフォークを突き刺し、一気に口に含む。もはや、躊躇はなかった。
口を開いたままでは、ソレが舌に乗っていることすら感じられない。しかし、ひとたび口を閉じれば、犬歯がソレに触れ、あのおぞましい音が内外に響いた。
ソレの感触も、突然出現する。音に違わず、食感も決して良いとはいえない。むしろ、吐き出せるものなら吐き出してしまいたい。
涙とも汗ともつかぬもので眼球を潤しながら、けれど私は口を閉じたままだった。
ソレは、あまりにも絶品だった。口中は、地獄の様相を呈しているというのに。私は恐怖し、そして歓喜した。絶命しかねないほどの美味に。
「コレは何なんだ、妻よ」
私は、思わず問いかけていた。
「コレは、一体何なのだ」
視界がかすみ始めた私には、妻の姿がよく見えない。彼女は、すでに皿をたいらげてしまったのだろうか。いや、いや。私こそ、まだ一口しか食していないのだ。まさか、一口分しかないわけではあるまい。いや、いや。まさか。
私はたまらず、皿を両手でつかみ上げ、その表面を舐め回した。しかし、ソレはなかなか口の中へ入ってこない。あの食感が、なかなか蘇らない。皿のふちを齧ってみても、同じことだった。私が欲しい食感はこれではない。
「嫌だわ、あなた。全て床に落ちてしまって」
私は妻の言葉を聞くなり、床に四つん這いになり、そこら中を舐め回し始めた。膝を床に落としたとき、肘かどこかがぶつかったのか、皿がすぐそばで大破するのが聞こえた。私はそれまで舐めてしまったらしく、口中は血に占領されることになった。
血混じりの唾を垂らしても、顎関節が痛み始めても、私は舌と顎を使役し続けた。妻は無様な姿をさらす私を見下し、けらけら嘲笑った。彼女は、こんな笑い方をする女だっただろうか。
ふいに、視界に何かが現れた。私は床をくまなく舐めながら、それが革靴の爪先であり、靴の主がギャルソンであることに気付く。革靴は照明を反射するほど磨かれているが、爪先に一点の曇りがある。赤黒い染み。これは、血だ。
「いかがですか?」
ギャルソンは、もちろん妻に訊いている。
「合格点よ」
妻は答えた。
「適度にまともで、適度にまともじゃない人間」
妻は、私の覚えている限りでは初めて席を立ち、床を這っている私の傍らに屈んだ。私は、思わず顔を上げた。それと同時に、妻のしなやかな両の指が、私の顔を両側から挟む。
眼前には、美しい顔。彼女が浮かべているのは、この世で最も優しい微笑。
「ねえ、あなた」
その声も、この世で最も優しい声だった。
「あなたは今まで、じゃがいもの骨をご覧になったことがあって? 『本物の』リゾットを召し上がったことがあって?」
妻は、額と額を合わせ、私を視線で縛り付けた。
「あなたは、『人間』を召し上がったことがあって?」
私は、そこで全てを悟った。しかし、それを問いただすには、私の舌はあまりにも疲れていた。しかし、舌が機能せずとも、体は正直だ。顔中から汗が噴き出し、込み上げる胃液で薄くなった唾が、口の端から無限に滴り落ちる。
「あははははははははあ」
私が発することができたのは、感情の伴わない笑いだけだった。
私を見つめる妻の瞳には、慈愛が秘められていた。同じ空間を共にし、同じものを食した、次のメニューの食材を。
「奥さま」
わかりかねるように、ギャルソンは首を横に振った。
「毎回申し上げておりますが、奥さまと同じものを、家畜にまで与えなくても」
「あなたは、本当にわかっていないのね」
妻は、肩をすくめてみせた。
「最高のものをいただくには、最高のものを与えるのが一番なのよ」
私はすでに、蚊帳の外にいる。視界だけではなく、意識までも混濁し始めている。突然、今までにないほどの絶望が襲いかかった。それは、妻に食されるためではない。
私はまだ、あの皿を完食していないはずなのだ。私はまだ、満足していないのだ。私はまだ――。
絶望の淵に立たされた私は、その瞬間、妻と目が合った。
間違いない。なぜなら、彼女は私に、たしかにこう言ったのだ。
「あなたはきっと、どの夫よりもおいしくなるわよ」
私はその言葉に、メインディッシュへの執着も、この場に至るまでの記憶も、全て捨て去った。
そうだ。ここで間違っているのは私で、正しいのは妻なのだ。何から何まで妻に任せていた私には、もったいない言葉だった。
私は、心から安心して、絶望の淵に身を投げた。(了)
追記:
書肆侃侃房主催の『第二回 ことばと新人賞』に応募したものです。
受賞には至りませんでしたが、ご意見いただきたくnoteに公開しました。
感想など、コメントいただけるとうれしいです。