十商シスターズ 『ヴィンセント海馬』12
『うさセンパイ』こと宇崎ひかりの仕事は、以前に比べて格段に忙しくなっている。
高校の受付業務の忙しさなんて想像もつかないだろうが、この日は異常だった。うさセンパイを含めて受付の事務員は3人。生徒たちに『鬼みたいなおばちゃん』と恐れられている内谷さん、『招き猫みたいなおばちゃん』となごまれている長田さん、そして『いちばん優しいお姉さん』と評価されている宇崎ひかり。
新設された『国語室』の工事関係者の出入りは依然として激しいし、今週から保護者開放が始まった。生徒にお披露目されたのがおとといの土曜日。そのたった2日後に一般利用が開始されるなんて異常なスピードだ。さらには第2国語室の増設話が持ち上がっている。
驚きはそれだけではない。
業務が忙しくなってしまったからと、校長から臨時手当としてひとりあたり『10万円』が現金で支給された。
「10万円!」
内谷さんの顔が鬼からカニに変わり、長田さんは歌を歌いながらスキップしていた。運動なんてまったくしないと宣言していた長田さんのスキップ姿を見たのはもちろん初めてだ。
年明けの入試関連の忙しい日でさえ『臨時手当』なんて支給されなかった。いきなりの待遇の変化に、うさセンパイは大げさではなく自分が物語の世界に紛れ込んでしまったような違和感を覚えている。
原因は間違いなくあの少年——ヴィンセント・VAN・海馬
この子は珍しいその名前もあってか、事務員の間で2か月前から話題になっていた。さらに彼は入学試験の成績が1位だった。しかも5教科のテストで——
500点満点!!!
10年間事務員をやっているが500点満点は初の快挙だ。
3人の事務員は「いったいどんな子?」と3月の制服採寸の日に偵察に行ったが、彼は全員が来るはずの日に来ていなかった。ただ、受験票などのデータで顔は確認できていた。
銀髪の、優しい目の少年——
* * *
彼が事務室に初めて姿を現したのは、入学式の翌日のこと。
4月6日金曜日。
家庭科室のカギを借りに来たのが最初の出会いだ。
「こちらで借りられるって聞いたんですけど」
「うん。あるはあるけど・・・今日家庭科があるクラスはないんじゃない?」
「授業はないんですけど、オレ、家庭科室を使いたいんです。広いテーブルとミシンが要るから」
「え? 個人的に使うの?」
「オレ、ヴィンセント・ファン・海馬って言います。校長先生には話が通ってますから大丈夫です。お願いします」
ウソをついているように見えなかったのは、彼の眼と声があまりにクリアだったから——むしろここでカギを貸さない方が罪のような気さえした。それはとても不思議な感覚で、宇崎ひかりは魔法にかけれたような気分だった。
10年間も事務員をやっていれば、当然『守秘』というコンセプトが頭から消えることはない。基本的に余計なことは口にしない自信もある。面倒な展開になりそうな事態に対する嗅覚は、嬉しいことか哀しいことかわからないが、たぶん他の人より鋭い。
なのに——
校長の許可証なくカギをすんなり渡してしまった上に、去り際の少年へ余計なことまで話してしまった。
「ヴィンセントくん、あのさ——」
「はい」
「これ他の人に言わないでね・・・キミ、実はね、入試で満点だったんだよ。すごい! 知ってた?」
入試の得点は非公開で、生徒には伝わっていない。
ただ・・・満点だ。
もしかして校長か担任の先生が伝えているかもしれない。
しかし——
予想とちがって、少年は少しも表情を動かさなかった。
「あ、はい。あれ、満点じゃないとオレ、入学できない設定になっていたんで」
満 点 じ ゃ な い と
入 学 で き な い
設 定
「え? それって・・・どういうこと?」
「オレ、中学休み過ぎでそれでいろいろあったんで・・・高校にはできるだけ迷惑かけないでいたいから、入試の前に校長先生と会って約束したんです」
「約束?」
あの校長が、入試前の生徒と約束を交わすなんて!
「何それ、教えて!」
「あっ、知りたいですか?」
「うん!」
少年は少し考えてから、密約の内容を明かした。
「ええと・・・オレが出した条件は2つ。1つは満点取ったらオレを入学させてください。2つ目はもし入学できたら、オレに校長のAIを作らせてください」
こ う ち ょ う の
エ ー ア イ
「ええ、何それ! 校長のAI?」
少年は、口に人差し指を当てて、声が大きいというポーズを取った。
「これ、校長以外の誰も知らない情報です」
「え? じゃあ、どうしてわたしに——」
めっちゃ普通の事務員に、そんな秘密をなんでとつぜん——
「それはもちろん、さっき宇崎さんがストレートに聞いてくれたからです。あと、オレを信頼してカギを貸してくれたから」
「え? なんで——」
わたしの名前を?
ネームプレートはしていない。今日に限って、ネームプレートを持ち帰ってしまったのだ。それがさっきから気になって、なんだか落ち着かないのに——。
「高校案内のパンフレットにフツーに書いてありましたよ。誰でもアクセスできるオープンな情報です。第十商業出身ですよね。オレの親友の美南ってヤツが今年から行ってる学校です。もし美南がこっちに遊びに来たらよろしくお願いします」
「そんなところまで」
見てくれている人がいるんだ。ていうか自分の出身校なんて、本当は書きたくなかった。偏差値が低いバカ学校だと思われるから——
嬉しさと恥ずかしさがないまぜになる。
宇崎はどういう表情をしていいかわからないので、ほんの少しうつむいた。
「ねぇ、うさきひかりさん」
海馬くんはフルネームで呼んでくれた。ひかりは数秒間、黙ったまま眼を合わせる。銀色の髪の下の、きれいな森だとか湖を連想させる、澄んだ深く優しい眼。
「オレにとっては宇崎さんの存在も校長先生の存在も等価です。どっちも大切です」
ど っ ち も
た い せ つ
この子・・・校長先生のことも大切に思っているってこと?
あのみんなから嫌われている校長先生を?
「だから、ぜんぜん『そんなところまで』じゃないです。大事な情報です。うさきひかりさん。完全にインプットしました。もう忘れることはないです」
これは本気で言ってくれている——すぐに判った。
初対面なのに、こんなにも自分を大切にしてくれる人がいる。
500点満点の頭脳だから忘れられることはないだろう。
恥ずかしい。
出身校がどうの言っていた自分の方が恥ずかしい。
一期一会
宇崎ひかりが中学校の卒業アルバムに書いた好きな言葉だ。就職試験の面接のときにも挙げたような気がする。国語は苦手だったし、辞書をちゃんと調べないで書いたから正しい意味かはわからないけれど『目の前の人とは人生では一度しか会えないかもしれない。目の前のことはもう二度と起きないかもしれない。だから人や機会を本気で大事にしなさい』という意味で、一期一会を選んだ。
わたし『一期一会』を大切にしてきたかな?
事務的な対応って言葉があるけれど——
誰に対しても事務的だった気がする。一応は頑張ってはきたつもりだけど、慣れちゃえば楽な仕事という感じでずっと甘えてきた気がする。
『AIの校長』という驚愕の情報よりも——
「ごめんなさい。ヴィンセントくんが言ってたさっきの子、何っていう名前だっけ? もう一度教えてくれる?」
ひかりが聞き返すと、海馬はにっこり笑った。
「美南です。村上美南って言います。目がくりくりしてて、髪がくるくるしてて。たぶん、宇崎さんが同じ学校出身ってこと知ったらめっちゃ喜ぶと思います。うさセンパイって呼びますね、きっと。アイツ、すぐに呼びやすいように変えてくるんで。いつか絶対ココに現れると思います。アイツ、天才なんで」
「天才?」
「いろいろと才能がめっちゃあるんです。本人は自覚が足りないけど」
***
4月14日土曜日。
予言通り、小さなフォトグラファが受付にやってきた。
目がくりくり。髪がくるくる。
すぐに判った。
あれは美南ちゃん。村上美南ちゃん。
わたしの後輩——
少女は緊張した面持ちで受付に現れると、慣れない感じの敬語で入校許可を求めてきた。
「むらかみみなみって言います。フォトグラファです。今日は頼まれて国語室の写真を撮りに——」
「第十商業の村上美南ちゃんだね」
「え?」
「お待ちしていました。顔パスです。どうぞ」
「顔パス? え? なんですかそれ」
「許可証はいらないってこと。どうぞ、本日はよろしくお願いします」
「あ! え? あ、ありがとうございます!!」
「わたし、十商出身なんだよ。先輩だね。宇崎ひかりって言います。よろしくね」
「え? なんで?」
一期一会
昔から憧れていた、ちょっと魔法使いになったような気分。
「うざきではなく、うさき。濁らないからね。うさきひかり」
「マジで! スゲー、じゃあ・・・ええと、わたし、これから——」
「うん。『うさセンパイ』って呼んでくれるかな?」
「うぉおおお! なんで? スゲー!」
かわいい後輩ができた。
ひかりは美南が持参したポラロイドカメラに一緒に収まった。
美白機能も補正も何にもないポラロイド写真。
笑顔の写真に、うさセンパイは太いペンでメッセージを書いた。
「わたし・・・十商で良かったって、初めて思ったよ」
「わたしも!」
十 商 シ ス タ ー ズ
「あ、美南ちゃん、仕事で来たんでしょ。早くいかなくちゃ!」
「うわ、そうだった! ヤバっ!」
「国語室は3階だよ」
「知ってます。この前、忍び込んだんで!」
「あは! そうなんだ!」
「そうなんです。じゃあ、先輩、また!」
美南はポラロイド写真を財布に入れて走り出した。宇崎ひかりセンパイは後輩の背中に向けて思いっきり手を振る。ブンブン、ブンブン。自分でもびっくりするくらい思いっきり、自分でも笑っちゃうくらい激しく手を振った。
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