鳳梨髪はパナポヘア 『ヴィンセント海馬』漢検篇★2★
今からそっちへ遊びに行きます――そう言ってから少年がカフェに来るまでは一瞬だった。まるで美月先生がこの店にいるのを予め知っていたかのような、ギャグマンガみたいな早さだ。
テーブルに水を運んできた喫茶店のマスターに対し、少年はその長い銀髪の前髪のようにさらりと言った。
「いつものをお願いします」
マスターは低音ボイスで応じる。
「かしこまりました」
いつもの・・・
そ ん な セ リ フ
い っ て み た い わ
「いつものって?! 海馬くんこのお店の常連なの?」
「あ、オレの友だちがやってる店なんです、ここ」
「そうなんだ!」
美月先生はマスターの後ろ姿を追う。
「あ、あの人はちがいますよ。鍋島さんっていうマスターで、友だちはオーナーです。店にはあんまりこないかな」
カフェのオーナーと知り合いの高校1年生・・・
「ていうか、海馬くん、高校生なのにコーヒー飲むの?」
メニューにはずらりと世界各国のコーヒーの名前が並ぶ。
ジャーマン、イタリアン、フレンチ、ケニア、アラビア、ハワイ、ブランデー入りのロシアンコーヒーもある。超こだわりの店だ。美月はコーヒーのことは詳しくはないけれど、この店の雰囲気を感じているだけで高揚するし、文学的な気持になれる。たしかに他の店よりも少しだけ値段は高いが、この素敵な雰囲気にお金を支払っていると解釈している。うーん。自分高校生のときは何を飲んでいたんだろう・・・牛乳?
喫茶店とか行っちゃう高校1年男子か。同い年、高校生の頃だったらうっかり憧れちゃうかもしれない。自分の知らない世界を知っている男の子。学校の勉強なんか全部無視して、カフェでチェーホフとかドストエフスキーみたいなロシア文学を難しそうな顔で読んでたり・・・あ!
「もしかして、いつものって、ロシアンとか? ダメ! あれはまだ早いよ」
美月先生はその名に惹かれて以前注文したことがある。一口飲んだ時点で、喉がメチャクチャ熱くなった。お酒が入っているコーヒーだから!
ただテンションも上がるので、ときどき落ち込んだ日に、ちょびっとだけ飲んだりするんだけど。
「あ、オレが頼んだのはそこに載ってません。裏メニューです」
う ら め に う
もういい。常連過ぎる部分はとりあえずスルーしよう。それより漢字。
「ところで海馬くん——奕棋なんて字、どこで覚えたの?」
「知りたいですか?」
「うん」
エキキ。Googleにも載っていない漢字といったいどこで出会うのだろう。覚えるとか以前に、インターネットですら出会えない漢字が出題されたら、解答しようがない。謎だ。海馬くん、何で知っているの?
「エキキはエッキとも読むんだって得意げに言ってましたね」
「え?」
誰が?! 得意げ?!
「それこそ、ここのオーナーです」
海馬はテーブルにあった紙ナプキンを手に取り、美月先生のペンを借りてさらっと字を書いた。手書きトレーニングをしていただけあって、その明朝体はやたら美しかった。
鳳 梨 髪
「これ、読めます?」
「わかる!」
素直にうれしい! 漢検1級の勉強が役立った!
「パイナップルがみでしょ!」
「はい。パイナポゥヘアです。さすがですね! ここのオーナー、自分のことパナポヘって呼ばせるんです。パナポの方が切りがいいのに、パナポヘってヘアのへまで加えてきて。本名呼ばせないんです。友だちっていうか先輩です。パナポヘ先輩」
「すごいね。そのパナポヘ先輩、髪型がパイナップルなの?」
「はい。気持いいくらい。パナポヘ先輩の文学ラブ度半端ないですよ。幸田露伴を敬愛していて、パナポヘ露伴って名乗ってます。奕棋は、幸田露伴の『連環記』の中に出てきて、丁謂っていう宋代の人について、幸田露伴が評するシーンがあるんです」
銀髪の少年は一瞬動きを止め、真顔になった。
「丁謂は恐しいような、又さほどでも無いような人であるが、とにかく異色ある人だったに違い無く、宋史の伝は之を貶するに過ぎている嫌がある——」
ヴィンセント・VAN・海馬は、幸田露伴が憑依したかのように、スラスラと『連環記』の一節をそらんじる。
「——政治は力を用いるよりも智を用いるを主とし、法制よりも経済を重んじ、会計録というものを撰してたてまつり、賦税戸口の準を為さんことを欲したという。文はもとより、又詩をも善くし、図画、奕棋、営造、音律、何にも彼にも通暁して、茶も此人から蔡嚢へかけて進歩したのであり、蹴鞠にまで通じていたか、其詩が温公詩話と詩話総亀とに見えている。真宗崩じて後、其きさきの悪を受け、ほしいままに永定陵を改めたるによって罪をこうむり、且つ宦官雷允恭と交通したるを論ぜられ、崖州に遠謫せられ、数年にして道州にうつされ、致仕して光州に居りて卒した。つまり政敵にたたき落されて死地に置かれたのである。謂はかくの如きの人なのである」
水野美月先生は、恥じ入るような気持になった。パイナップルが読めたくらいで喜んでいる自分。一方、奕棋が書かれている『連環記』を愛読しているまだ見ぬパナポヘ先輩。そしてそれをきちんと学び、そらんじることのできる海馬くん。
テンションがダダ下がり。
ロシアンコーヒーが飲みたい。
タイミングよくマスターの鍋島さんが来た。
「お待たせしました」
鍋島さんは年下の常連にもしっかりとした敬語を使う。
「ありがとうございます」
白いカップに茶色の液体が注がれている。
「海馬くん、それ、何?」
「知りたいですか?」
あっ——
また下手に知りたがって、自分の知らないコーヒーの奥深い世界がいきなり展開されたらどうしよう。この鍋島さんっていう人が、自分なんかが飲んではいけないくらいのコーヒーの達人だったりして・・・しかし美月先生がためらっているうちに、少年は自ら答え始めてしまった。
「これは・・・ええと、ココアです」
「ココア?」
海馬くんはめずらしく、ほんの少しだけ恥ずかしそうな表情をした。
「オレ、コーヒー飲んだことないんです」
「え?」
そうなんだ!
海馬くんは鍋島さんに伝えた。
「鍋島さん、追加で先生にロシアンコーヒーお願いします」
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