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すなおになる。

知らんかった。

「すき」が、こんなにすごいんだってこと。



自分の「すき」を探そうとか、やりたいことを見つけようとか、これまで何度も何度も聞いてきた。

アスリートや研究者の方が、子どもたちにそう語っている場面が真っ先にうかぶ。

この人たちはそれを割と早い段階で見つけて(見つけられて)そこから今のその人までになったんだろうなと、遠くにいる別世界の人みたいに眺めていた。

それを見つけられること自体が幸運というか才能というか、見つけられていないわたしはだから凡人なんだよなぁ、と完全に区別した。

「すき」が仕事につながるなんて一部の特別な人のことで、趣味にはなっても、人間関係を築くきっかけにはなっても、人生に色を添えることはあっても、それがわたしのメインになるなんてあるわけないと、ずーーーっとそう思ってきた。


なんというか。

アスリートや研究者の、あの人たちの「すき」と、わたしの「すき」は、一緒じゃない。

そう表現するのが一番近い気がする。

わたしの中で、そこにはきっぱり線があった。



知らなかった。
今になってやっと気付いた。気付けた(遅い…)。

あの人たちの「すき」とわたしの「すき」はおんなじだったんだってこと。それは、わたしの「すき」があの人たちの「すき」ほどの特別なものだということであって、あの人たちの「すき」がわたしの「すき」と同じくらいささいで素朴で特別なんかじゃないってことの、両方だ。


人と比べることの無意味さなんて、何度実感しても気を抜くとすぐに忘れる。

それでも、憧れたり羨んだりしてる人がいて、その人と自分はおんなじなのかと思えた時に自分を許せた気持ちになることは、前に進むためのガソリンになる。
まだその過程を繰り返すところにいるのだと思う。
そうしながら自分を知って、受け入れて許して愛していけるような気がする。


自分の「すき」を大切に思っていいのか!と気づくと、とたんに他人の「すき」がカタチになっていることがものすごくすてきでキラキラしていることにも反応してしまう。そこにもびっくりしている。

別世界の人だと思っていたあのアスリートたちや芸能人の人や芸術家や社長さんやいろんな人の表現や活動や作品が、これまでよりぐっと身近で温度があって。身近な人の作ってくれた食事のひと品が特別に思えるのもそうだ。

その人の込めた思いと、自分の「すき」を大事にした結果その人がハッピーであることそのものが、こっちをこんなにハッピーにするのか!いうことが、以前のわたしは30%くらいしか受け取れてなかったんだなと思う。それが今ぶわーって押し寄せてくるもんだからなんじゃこりゃ!って溺れそうで。


「すき」は、わたしを助けてくれることはなかった。

そう思っていたけどそれは間違ってたんだなと今思う。

あの頃もずっと、わたしの「すき」はわたしの中にいてわたしを助けてくれようとしてたんだなあ。それを見ないふりしてたのもわたしだったんだなぁ。


「すき」を、周りにいうことの効果がやばい。

ということも考えた。

それはそれは、わたしみたいなタイプの人間にはものすごくハードルの高い行為だ。過去の試行錯誤がことごとく失敗しているのもある。

たとえば子供の頃、特別だった親友の子は別の子と仲良くなってわたしからは離れて行った。独占欲だけがすきを表現する術だった。そりゃ離れていくよなと今はわかるし、なんならその反動なのか今のわたしは過敏すぎるほど他人の好意を受け取ることが苦手ですらある。

漫画も好きだったし音楽も好きだった。それは当時委員長タイプだと思われている(と自分で思い込んでいる)わたしにはなんとなくおおっぴろげにすきー!と言わない方がいいんだと思っていた。

こっそりとすきでいることが特別なことに思えることだってあった。
周りに自分のすきを言えなくても、わたしのすきは神聖だ純粋だと思うことで自分のすきを守れていると思っていたのかも知れない。
それは恋愛におけるすきについても同じで、すきだと伝えることのハードルだけはどんどん高くなり、他人の恋愛を応援するのが疑似恋愛みたいな感覚になってたんじゃないかなと思う。

秘めていてもいなくても、思いはあるしそれはすてきなことだ。

ただ、「すき」を表に出すことは、自分の「すき」を自分が受け入れて認めるのに、いちばんはやくて近くて効果的なやり方なんだなと思う。

人に知ってもらうのが目的じゃないってこと。

問題は、それがわかってなお、そうできないわたしよ。ということだが、そこは、できる日は絶対来るよと少しおおらかに構えている。

そして。
自分の中の「すき」の気持ちを大事にすることは「すき」という気持ちを対象に押し付けることとはまったく違うよということをちゃんと知ってないといけないなと思う。自分の「すき」の気持ちを大切に受け止められると、他人には他人の「すき」があってその「すき」はその人のものだとわかってしまうよね。


更に考えだけは先へ先へと、派生し、「すき」があるということは「きらい」もあるわけで、きらいもいやだもしんどいもやりたくないも、ほんとに山ほど大小あって、それを表に出すのはわがままだと否定されることの方が多い。

「すき」以上にそれらはふたをされてうとまれて否定されてきたし、わたしは自分のそれらにふたをするのが上手いし他人のそれをそイヤだと思うたちだ。

だけど。

「すき」だけを認めてあげるのはちょっとへん、とも思ってきた。

極論。

わがままも、いい。

というか、わがままはわがままじゃない。

問題は、自分の気持ちに素直かどうか、しかないんじゃ?

好きも嫌いもいいも嫌も全部。


今年、甥っ子と初めてがっつり遊んだ。向き合った。
甥っ子のパワーに圧倒されてへろへろだった。
その甥っ子は、自分の「したい」におそろしいほど真っ直ぐだったなと今思う。

あれは、あの子の素直さそのものだったんだなと。振り回されてへとへとになったけど、わたしもわたしであの子にやだ疲れたしんどい待ってって言えばよかった、と、今更思う。
大人だからという立場だけから接しすぎてた。


ここまでずーーーーっと、いわゆるいい子で生きてきたわたしに、わがままはわがままじゃないんだと、もっとはやく気づかせてくれる何かしら誰かしらは…現れる余地がなかったんだろうなぁ…。


それでも今、私は陶芸がすきだし、それをやる自分に向けて、ちゃんと気持ちで向き合う時間を増やせていると思う。

わたしなんかが、わたし程度で、という気持ちはめちゃくちゃしぶとくて、これでいいんだろうか、やっていけるのだろうかという不安と共に隠れては顔を出し隠れては顔を出す、の繰り返し。

それも仕方ないし、それに振り回されながらでも進めていると思うから。


目標は、究極の素直さ。

いやあんまりデカすぎる目標だとぼやけるし挫折するか。


昨日から、書きたいことがあふれてまとまらず、書いてはやめ、削除しては書き直し、を繰り返して、とりあえず今の時点でこんなふうにまとまりました。

長えし読みづらいけど。

ここまで読んでくださってありがとうございました😊

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