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書く幸せに気付く。

ノートに向かっている時間が、楽しい。

楽しいから、続くのか。



おはようございます。

何も書かないページがあってもいいのか!
ということに勇気づけられて、はじめて手にとったほぼ日手帳。2012年。

それから数年ほぼ日手帳にお世話になった。

日々の言葉を読むことや好きなカバーで気分はあがったし、他のユーザーの人達のかわいい使い方を真似してみたり、使い方を模索して。

新月はじまりで生活することが身体のリズムに合ってるよときいて、やってみたいなと思った。

普通の暦で作られた手帳と合わなくなって、ほぼ日手帳を一旦離れることになる。

新月始まりの手帳は、今も続けているので私には合っているみたいだ。

ほんの少し前までは、手帳に書くのはやることリストのチェックと、体調記録、出掛けた場所のメモがメインだった。
たまにその時の感情を殴り書きのようにぶつけて書いている日もあったが、読み返す時辛くてみっともなく思えて、文字で残しておきたくなかった。

母が病気になってからは母の体調ノートを別に作った。

どの手帳も、楽しい、という気持ちはそこまでなかったと思う。

何のために書いているのかわからなくなったこともあるので、記録の残ってない日も連続してあるし、たくさんある。

そんな状況で、形態を変えながらも細々と続いてきたのも今思えばすごいことだ。

そんな手帳生活。

ここにきて一変。激変。

こんな日が来るなんて。
こんな日が来るなんて、みたいなベタな言葉しか言えないなんて。

気持ちを書くのがこんなにも楽しい。楽しいのもそうだし、浄化されてすっきりするような感覚も大きくて。

以前は書き残したものを読み返して、しんどかった。
その時の気持ちを思い出すのもしんどかったし、そう思っていたその時の自分も否定してたのかも。

ここ最近は、しんどかった時のことはあんまり読み返してない。
書いてることが、しんどいことが少なくなってるのもある。
楽しかった日幸せだと思った日にシールを貼ることにしてみたら、シールの日を読み返すことが増えて、振り返るとまた嬉しくなって、そしたらシールをたくさん貼りたくなって、ほんの些細なことでもよっしゃ!ってなったらシール貼って、そしたら幸せシールだらけになって、シールだらけの光景が更に嬉しい…という、謎の好循環が起こっている。

目次のページ。5月と6月。


最初はシールの基準を自分なりに作ってしまって、あの日の幸せ度があんだけ高かったのに比べて、今日はささやかすぎるから、シールはなしかな…、みたいな大雑把な基準。


あの日と今日とを比べる意味があるのか…?幸せ度合は関係なくないか?大でも小でも幸せだったんならシール貼っていいと思うぜ。

と思ってからは、そこから振り返ってちょっとでもいいことあった日にはベッタベッタとシールを後付けしていった。

目次だけじゃなくて、マンスリーにも貼るし、デイリーにももちろん貼る。

どこを見てもシール。
この視覚効果だけでかなりすごい。

そうじゃない普通の日もあるから余計にいい。もちろん悲しい日もイライラした日も最悪な日もある。いい。もう、全部いい。だからシールの日が、とてもいい。


ちなみに。
タイプが分かれると思うが、私はその日のことをその日の夜に振り返ることができない。
それが合ってないことに全然気づかなかった。その日のうちに振り返りたかったし、できない自分がダメなんだと思い込んできた。

私には、その日のことを次の日の朝に振り返るのが合ってるみたいだ。

その方式にしたら朝が楽しいし朝からずっと楽しい。

なんでもっと早く試さなかったんだろう。他の人が朝やるのいいよって言ってるのいっぱい見てきたのに。


これもここ最近よく思う。

何でもっと早く気付かなかったんだろう、は、やっと気づけて良かったね、今気付けて良かったんだよ、ここまで経て気付くことだったんだよ、だと思う。

なんでもっと…、と思う気持ちもあっていい。だってそう思っちゃうんだからそれはそれでいい。

そこに気付くためのこれまでだったことも、そうだよな、それがあたしなんだよな、と思うこともいい。

そこを行ったり来たりして、焦ったりおろおろしたり、いやいや大丈夫と深呼吸したりの繰り返し自体を、実体験しながら俯瞰で見るかんじ。

そのかんじがたまらなく楽しい。


朝が楽しくなってから、ベランダに出て目をつぶって深呼吸するのがとてもいい。
目をつぶると鳥の鳴き声がめちゃくちゃきこえる。
空気が澄んでるのを鼻と喉で感知する。
空がずっと遠くまで広がってるのをまぶたの裏に感じる。

そこまで感じきったら目を開ける。


おはようございます(2回目)。

今日もいい朝です。

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