不完全ママ

2012年10月31日。
わたしは離婚し、シングルマザーの肩書きを持つこととなる。

世の中がハッピーハロウィンと浮き足立つ中、
このときわたしは、長いトンネルから抜け出した解放感と先が読めない不安。
二つの感情がぐにゃぐにゃ入り交じる、なんとも言えない心理状態にあった。

この子にはわたししかいない。
眠る息子の手をそっと握った。

わたしは幼い頃両親が離婚しており、
父親との記憶がない。
学生の頃はその話をすると決まって
「ごめんね。」
と、みんな気まずそうに話題を変える。
しかし、父親とはどういうものかを知らないわたしは
謝られても困るというか、
父親がいないのが普通なので、
「大丈夫だよ。」
と、何が大丈夫なのかわからないが気を遣わせて悪かったなと替わった話題についていこうとしていた。

母はとても忙しかった。
平日は歯科衛生士の仕事。
休日は農業をしていた祖父母の手伝い。
365日働きづめだった。
母とどこかに出掛けた思い出はほとんどない。
でも、寂しくはなかった。
というか、わたしが寂しく感じないよう
祖父母や叔父叔母がわたしのことを気がけてくれた。
こうしてわたしは箱入り娘のように育った。
段ボール箱かもだけど。

母は決して父のことを悪く言うことはなかったが
まわりは違った。
「帰ってきてよかったよ。
 あんな仕打ちやこんな仕打ちをされて…」
大切に育てた娘やかわいい孫が
つらい目にあっていたと、悔しいと、
祖母は涙ながらに話すことがよくあった。

そんな刷り込みを英才教育的にされていたわたしは
全く結婚に夢が持てなかった。
結婚前にみてもらった占い師に
「あなた方は赤い糸…いや糸で繋がってます。」
と、赤い糸をただの糸に訂正されたときも
「切れちゃうほうの糸かよ!綿100%だな!」
と笑いとばしていた。

しかし、子どもを授かると考えがひっくり返った。
昭和のおやじのちゃぶ台くらい返った。
俗にいう、温かい家庭とやらを
手に入れたくなったのだ。
ドラマでみたことがある、親子3人でのお出かけ。
父親と遊んではしゃぐ子どもを
優しい眼差しで見つめる自分。

でも、理想と現実は違った。
産後わたしはうつ病になり、
入院加療の後、わたしは実家で療養生活を送った。
完璧主義で良妻賢母を目指していたわたしは
自分で自分の首を絞めていたことに気づいた。

結婚生活をやめよう。
長い別居後、わたしは離婚を決意した。

心臓の悪い祖母には負担をかけられない。
そう思い、実家から車で3分の団地に引っ越した。

あれからもう7年が過ぎた。
学校から帰ってきた息子に手作りおやつを
作ることを夢見ていたわたし。
きょうのおやつはチョコボールだった。
息子は放課後児童クラブに通い、
終了時刻ギリギリに駆け込み迎えに行く。
一日5品以上作っていた夕食は
洗い物が楽な丼ものや、お惣菜や外食に
頼ることもある。

ある日、理想と現実のあまりにも大きい違いに
愕然とし、親として情けなく、
泣けてくる日があった。

「こんなママでごめんね。

 一緒に遊ぶ時間が少なくてごめんね。

 お母さんひとりでごめんね。」

情緒が完全に崩壊していた。
そんな不安定なわたしに息子は言った。

「どんなママでも、このママがいい。

 このママじゃないとダメ。」

この言葉に救われ、ときに甘え、
わたしは今日も母親をさせてもらっています。

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