見出し画像

かよみんの自己紹介〜がけっぷちアラフィフからの新しい挑戦の日々


はじめまして。かよみんです。


暮らしに役立つAI活用法や
中高年からのムリしない仮想通貨投資について
発信しています。


わたしはフリーランス翻訳者として
20年以上活動してきました。


50才をすぎてから
生成AIのおもしろさに目覚め、
その力を借りて
2ヶ月という短期間に
3冊のKindle本を出版しました。

陰陽五行カフェ五彩堂へようこそ〜人間関係をラクにする東洋の知恵〜


実践的!ChatGPTと一緒に作るわかりやすい短歌入門
お母さんは脳科学者



おかげさまで
Amazonランキング1位もいただきました。


こんなわたしですが、以前は
「こんなことを書いてみたいな」
という思いはあっても
「自分なんかが書いていいのか」
と、心のブレーキがかかって
筆を進めることができませんでした。


そんなときに出会ったのが
ChatGPT。


最初は
「便利な検索ツールかな?」
くらいの認識だったのが、
仲良くなるにつれ、
ChatGPTはわたしの背中を押すように
どんどんアイデアを出してくれ、
「自分の本を出せた!」
という感動を味わうことができました。



過去には、
3人の子育てや翻訳業のかたわら
ユニークな講師の方々を招致して
アドラー心理学、陰陽五行、風水など
多彩なテーマで100回以上の講座を主催。


即興劇ワークショップ(インプロ)も
50回以上開催し、
数多くの方の自己表現を後押ししてきました。


最近は、
仮想通貨のおもしろさに気づき
「仮想通貨とはなんぞや?」と
学びを進めています。


人は、
何歳からでも
新しいことへの挑戦ができる。

このnoteでは、
くらしに役立つAI活用術や
ムリしない仮想通貨投資について
発信していきます。



この下に、わたしの子ども時代からの
ストーリーを書きました。

かなり長くなってしまったので(^_^;)
ご興味ある方、
読んでいただけたらうれしいです。


長い長いわたしの話


小さい頃は、
ひとつ年上の兄のことが大好きで
なんでも兄のことをマネしていました。


3才になったときに妹が生まれ、
「おねえちゃんなんだからがまんしなさい」
と言われる日々が始まりました。

わたしは、
兄と妹にはさまれた「真ん中っ子」となり、
いつもなんとなく、
自分にかけられる愛の少なさを感じていました。


小学校は、
田舎にある小さな学校で、
わたしの学年は特に人数が少なく、
小学校の6年間、1クラスのままでした。


一年生のときの担任のN先生がわたしの作文をほめてくれて、
国語が大好きになりました。


優等生気質だったせいか
学級委員に選ばれることも多く、
クラスでお楽しみ会の企画をしたり司会をしたりするのが好きでした。


クラス替えがなかったこともあってか、
なじみの友達と
田舎の自然にかこまれてのびのびと6年間をすごしました。


当時は、家で「おねえちゃん」扱いされるよりも
小学校にいるほうが
自分らしくすごせていたように思います。


中学校に入学すると、
今までの1クラスがいきなり7クラスになって、
環境が激変しました。


当時は学校が荒れていた時代で
校内をバイクが走ったり、
パトカーが来たりなんてこともめずらしくありませんでした。


わたしのクラスでも
陰湿ないじめがはびこっていて、
わたしは、なんとかいじめられないよう、
まわりに必死に合わせていました。


小学校までは勉強が好きだったのに、
中学校では、
いい成績を取るとクラスで「浮く」気がして
わざと勉強ができないふりをしたこともありました。


学校に行くのがゆううつで
遅刻がふえて、
朝のホームルームの時間はトイレに隠れて
1時間目が始まる前にシレッと着席して授業を受けていました。


当然、親からも怒られて、
自分でも自分に対して
「なんでこんなふうになってしまったのか」
と、自分で自分を情けなく思ってしまいました。


そんなふうにグレかかりつつも、
初めての恋愛をしたのも中学生のときでした。


小学校のときも
「◯◯くんが好き」という
淡い恋の感情をもったことはありましたが、
中学校になってTくんを好きになって
人生で初めて
「人を好きになる苦しさ」を知りました。


Tくんとは、
いっとき両思いになったのですが、
意識しすぎて口も聞けなくなり、
すぐふられました。

Tくんとは高校も同じだったので
ずーっと引きずっていましたね。


また、当時は、
学校で兄と比べられるのもイヤでした。


兄は勉強がよくできた上、
絵を描くのがとても上手。

コンクールで入賞した絵を
全校生徒の前で美術の先生が絶賛したこともありました。

中学校の先生からは
「兄貴は優秀なのになぁ」
と、しょっちゅう比べられていました。


そして、
小学校のころのわたしを知る先生からは
「小学校のときは素直だったのに」
と嘆かれることもよくありました。


そんな中でも、
国語のI先生だけは
わたしのことをおもしろがってくれました。

そのおかげか、中学校でも
国語の授業だけは好きでした。


高校は、
兄とは別の学校を選びました。


先生も同級生も
兄のことを知らない人ばかりで、
全体的にのんびりした雰囲気の
地方の進学校でした。

合格が決まって
「やっと安心して勉強できる」
と、ほっとしたのを覚えています。


入学後、
国語の最初の授業でいきなりテストがあったのですが、
教科書を前日にパラパラ読んでいたせいか、
わたしはかなりいい点を取ることができました。


先生に
「このテストは、
半分取れれば十分という想定で作ったのにすごいな!」
と絶賛され、
クラスのみんなからも
「おぉー」という声が。

「ここでは、いい点をとっても、
隠さなくていいんだ」
と、うれしくなりました。


また、高校で出会った
英語のK先生も
一見熱血でありながら
とてもやさしい先生でした。


英語日記を書くことをすすめられ、
毎日先生に見てもらうようになりました。


K先生に
「あなたの書く英文にはセンスを感じる。
読むのが楽しみだ」
とほめられて、ますます英語が好きになり、
「将来は、英語を使った仕事をしたい」
と、隣県の外語大を第一志望に決めました。


しかしここで
その後の人生を大きく変える出会いが。

高2で出会った化学の先生が
非常におもしろい人だったのです。


先生は関西出身で、
授業中、ひょうひょうとした関西弁で、
化学のおもしろさ、学ぶことのおもしろさを教えてくれました。


今思えば、
わたしはその先生を好きになってしまったのでしょう。
(惚れやすい性格です)

わたしは
「大学で理系の勉強をしてみたい」
と思うようになりました。


子どもの頃から大好きだった祖父母が
名古屋で町工場を営んでいたので、
理系の仕事にちょっとした憧れがあったのかもしれません。


しかし、わたしは
物理の授業がかなりニガテでした。


担任の先生に相談すると
「だったら、農学部を受けたら?
化学と生物で受験できるよ」
とアドバイスされ、
第一志望を農学部に変えました。


当時、バイオテクノロジーという言葉も
流行っていて、
なんとなくかっこよく感じてたのでしょうね。


この頃のわたしは、
親との関係がよくありませんでした。


父と母は家でしょっちゅう言い争っていたため、
家にいても
あまり心がやすまりませんでした。


当時のわたしは、
「このままここにいたら、わたしは腐ってしまう」
なんてことを考えて、とにかく家を出たかった。


そのため、
大学に入ったら一人暮らしすると決めていました。


猛勉強のかいがあって、
京都大学に現役合格しました。


そして念願のひとりぐらしを始めました。


実家から下宿に引っ越すとき、
父が家のライトバンで荷物を運んでくれました。

父も学生時代は、
京都にある私立大学に通っていたので、
京都へ向かう道すがら、
当時のいろんな思い出話をしてくれました。

それまで、
父にはひどく反抗していたのに、
「お父さんにも、学生時代があったのだ」
と思ったら、初めて父に深い親しみを感じ、
同時に深い感謝の気持ちがわいてきました。


荷物を運び終えたあと、父が
「じゃあ、がんばれよ」
と、去っていったあとは、
涙がとまりませんでした。


そして始まった大学生活は、
高校までで感じていた優等生気分を
粉々に打ち砕くものでした。


必修で数学の授業を取らないといけなかったのですが、
わたしは、授業の内容が
まったくといっていいほどわからなかったのです。


でも同級生は
「むずかしい〜」
と言いながらも出された問題をなんとか解いている。


「わたしって落ちこぼれ……」
とショックを受け、
学校をサボりがちになりました。

また、部活をなかなか決められず
あちこちの部に体験入部しては
「うーん、なんかちがう」
とさまよいました。


友達もなかなかできず、
「自分はここにいてもいなくても
誰にも気づかれないんじゃないか」
と、自分がまるで
透明人間になったかのように感じていた時期もありました。


さっさと部活に入って
大学生活を楽しんでいる同級生の姿に
ひどく焦りを感じました。


そんなときに出会ったのが、
熱気球部でした。


熱気球なんて、
テレビでしか見たことがなかったのに、
「実際に乗れるんだ!」とビックリ。

先輩から活動についての説明を聞きながら、
「入部します!」
と即答しました。


先輩たちはみんなおもしろく、
気の合う仲間とも出会え、
まさに「青春!」な時期でした。


夏には北海道に長期合宿に行ったり、
冬には九州で熱気球の大会に出たり、
ときにはみんなでボーリングやカラオケに行ったり、
温泉までドライブしたり。


しかし部の運営方針をめぐって
さまざまなトラブルが起こってしまい、
部は分裂状態に。


結局一年しか
熱気球部にはいられなかったのですが、
とても充実した一年でした。

当時いちばん仲よくなった女の子とは
部活をやめたあともよく遊んで、
今でも付き合いが続いています。


また、
のちに結婚することになる彼と出会ったのも
この熱気球部でした。

熱気球部をやめたあとは
ほかの部活に入る気にはなれませんでした。

でも、大学3年生になって専門課程に進むと
同級生とよく交流するようになりました。


一人暮らししている子がほとんどだったので、
夜遅くまで研究室で語り合って
ゲラゲラ笑いながら
徹夜したこともありました。


恋バナや将来の話、
お互いの家の話、
いろんな話をしました。


当時の同級生とは、
卒業後も数年おきに同窓会が開かれていて、
みんなで旅行に行ったことも何度か。


会うとすぐにあの頃に戻れる、
とても大切な仲間たちです。

また、初めての海外旅行に行ったのも大学時代でした。

最初は、オーストラリアでの短期語学研修から始まり、
その後、
タイ、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、トルコなど
ひとり旅を何度もしました。


まだインターネットもなかった時代、
行き先の情報もよくわからないまま
夜行列車や長距離バスに揺られてあちこちへ行きました。


まちがった駅で降りてしまったり、
大寒波がやってきてひどい風邪を引き、
高熱で入院したりと危ない目にあったことも何度かあります。


今思うと、我ながら
コワイもの知らずだったなぁと思います。


そして、単位スレスレながら、
なんとか大学を卒業し、
研究室の教授のコネで
製紙会社の研究所に就職しました。


わたしが配属されたのは
製紙用の材料を研究する研究室です。


研究所は全体的にのんびりした雰囲気で、
さらに同じ研究室に大学の先輩もいたこともあり、
わたしは学生気分が抜けませんでした。


昼休みはユニホックという
簡易型ホッケーみたいなスポーツで汗を流し、
しょっちゅう飲み会を企画しては、
研究所内の食堂でみんなでワイワイさわいでいました。


入社した最初の頃は、
同期や先輩たちと
仕事の後にカラオケに行ったり
ケーキ食べ放題に行ったり遊んでばかりいました。


その一方で、研究の仕事には興味が持てなくて、
「わたしは、理系向きじゃなかった」
と、ようやくこの時期になって悟りました(遅すぎ)。


「そうだ、高校生のころは英語が好きだったんだ。
留学してみようかな」
なんてことも考えましたが、親からは
「この年になって留学なんて。
もっと普通の生き方をしたら」
と反対が。

そして、
それに抵抗して留学する気迫も、
転職する勇気もわたしにはなかった。


そんなわたしですが、
大学時代からつきあっていた彼氏と、
遠距離恋愛は続いていました。


いや、正確に言うと、
別れそうになったことも何度かありました。

でもそのたび
どちらかが折れて、
なんとかかんとかクサレ縁が続いていた、
と表現するのが適切でしょう。


当時はまだ、
「結婚適齢期」なんて言葉が
空気の中に漂っていた時代です。


会社勤めをやめたい一心のわたしは、
「もういい年だし、いつ結婚するの?」
と、彼を説得するようにして結婚に逃げ込んだのです。


そんなふうにして結婚したから、
わたしの心には
「わたしは、お情けで『結婚してもらった』のだ」
という劣等感がうずまいていました。

専業主婦になるのも申し訳ない気がして、
夫と同じ会社でパート研究員として働き始めました。


しかし、前職と同じ研究所と言っても
こちらの研究所は、
工場のような厳しさがありました。


作業服をきちんと着て、
安全に関するルールもきちんと守らなくてはいけませんでした。

社宅に住んでいたので、
同年代の夫婦がいっぱい住んでいました。

しかしわたしは昼間仕事をしていることもあり、
さらに人見知りを発動してしまい、
最初の頃はなかなか友達ができませんでした。


社宅の庭には広い公園があり、
そこは、ママたちと
小さな子どもたちでいつもにぎやかでした。

双方の両親たちから
「はやく孫の顔を見せて」
とせっつかれ、わたし自身も
「結婚したなら次は子どもを産まないと」
と、まるでそれが人生のレールみたいに思って、
今で言う「妊活」を始めました。


でも、わたしは
独身時代に無茶なダイエットをしたことがあり、
それがたたってか、
なかなか赤ちゃんに恵まれませんでした。


不妊治療は、
出口の見えないトンネルのようでした。

その辛さや
社宅に友達がいないさびしさを夫に伝えても、
「どうしてそんなネガティブなことばっかり言うんだ」
と否定され、ますます辛さがつのっていきました。


そのころ、不妊治療をしながら、
自宅で翻訳の勉強を始めました。

会社勤めが辛かったのと、
この先、もし子どもが生まれたとしても
家で続けられる仕事がほしかったから。

不妊治療はなかなかいい結果が出ませんでしたが、
翻訳者としてはデビューすることができ、
少しずつ依頼がふえていきました。


そして、
「これなら翻訳の仕事だけでやっていけそう」
とパート研究員はやめました。


会社に行くストレスがなくなったおかげか
体調もよくなってきて、
とうとう第一子を授かることができたのです。

長男が誕生したときは、とてもうれしかった。

とっても小さな体で、
全身で泣いてわたしを求めてくれる姿に、
「あぁ、わたし、生きてていいんだ」
と、生まれて初めて自分のことを全肯定できたように思います。


人見知りなわたしにとって
子どもの存在はとにかく偉大でした。

社宅のママたちとも
子どもを通じてつきあえるようになったのです。

4年後に、長女が誕生。

しかし娘は、
生まれた直後から尋常ではない泣き方で、
「もしやなにか障がいがあるのでは?」
と感じました。


首のすわりや歩き始めなどの発達もかなり遅く、
検診のたびに別室に連れて行かれました。


当時住んでいた場所には
専門的な相談ができる場所がなく、
娘を育てながら、
「どうしたらいいんだろう」
と、暗い霧の中にいるような日々でした。


音楽療法や漢方治療、ホメオパシーなど、
いいと聞いたものをあれこれ試しましたが、
期待したような効果は出ませんでした。


親たちからは
「心配しすぎでは」
と言われたり、
夫も仕事で帰りが夜遅くて心配を共有できない。

どんどん孤立していくように感じられました。


そんなころ、
社宅が老朽化で取り壊されることになり、
借り上げの一戸建てに引っ越すことになりました。


社宅のママ友だちとは離れることになりましたが、
そのぶん、自分のペースで子育てできるようになり、
少し気楽になりました。


その一戸建ては広くてのびのびと暮らせたのですが、
昔ながらの開放的な造りで
戸締まりが大変。

あるときうっかり窓を締め忘れてしまい、
泥棒に入られてしまったのです。


ちょうどお金をおろしたばかりで
かなりの金額を盗まれてしまいましたが、
今思えば、泥棒と鉢合わせしていたらと思うとゾッとします。


そのことがきっかけになり、
「安心して住める自分の家がほしい」
と思うようになり、
土地を買って家を建てることに。


しかし、この家造りがまた大変でした。


工務店の社長さんは、
最初の打ち合わせのときは
「おおらかでいい人だ」と感じて契約したのですが、
実はおおらかというより、
いいかげんな人でした。


依頼したのとちがう建材が使われていたり、
頼んでいない工事が勝手に進められていたり。

幾度ものやり取りで疲れ果てました。


夜中に建築現場にひとりで出かけて
「家なんて建てるんじゃなかった。夢だったらいいのに」
と、さめざめと泣いたこともありました。


夫に辛さを訴えても
「今さらどうしろって言うんだ」
と逆にキレられ、
「そうだよね、家を買いたいって言ったのはわたしだし……」
と、それ以上何も言えませんでした。


それでも、家が完成して家族で住み始めると、
しだいにその家での暮らしが心地よくなっていきました。


そして、三人目の子どもを授かりました。

次男が誕生したころ、わたしは、
「長女の将来のためにおカネをためよう」
と、ガツガツしていました。


翻訳で稼いだお金を増やそうと、
FXや株などの投資を始めました。

しかし中に詐欺まがいのものもあり、
投資に使ったお金はほぼ失いました。


借金をしていなかったのは幸いですが、
夫には多額のお金を失ったのを責められるのがこわくて
投資の失敗を言えませんでした。


このころ、次男が2歳でネフローゼ症候群という
腎臓の病気を発症しました。


全身がむくんでパンパンになり、
近くの小児科で見せたところ、
「紹介状を書きますから市立病院にすぐに入院してください」
と言われました。


わたしは
「なぜこうなる前に気づいてあげられなかったのだろう。
この子は、働きすぎのわたしの犠牲になったのではないか」
とひどく自分を責めました。


市立病院の医師からは
「この年齢でネフローゼになった子は、
おそらく再発を一生くりかえします」
と言われ、さらにショック。


幸い1ヶ月ほどで退院はできましたが、
「再発を防ぎたい」
という一心から、
わたしは、雑穀料理やマクロビオティックを学ぶようになりました。


食事療法が功を奏したのか、
次男は退院後、
軽く再発しかかりましたが入院はしなくてすみ、
その後は16年以上、ネフローゼの再発はしていません。

当時、医師からは、
「こんなに良くなるなんて奇跡です」と言われました。


雑穀料理のことを友人たちに話したところ、
「わたしにも教えて」
と言われるようになり、自宅で小さな料理教室を始めました。


作った料理をみんなで食べているときに、
生徒さんたちから
「実は…」と
心の悩みを相談されることがよくありました。


それをきっかけに、
心のことにも興味がわき、
いわゆる「スピリチュアル」なことを
たくさん学ぶようになりました。


個人相談も何件かやり、
それなりに評判はよかったのですが、
当時は、継続メニューを作るという知恵がなく、
単発でいろんな相談を受け続けるのに疲れてしまって
長続きしませんでした。


またこの頃、東北の大震災が起こり
計画停電が続く中で料理教室を続けるのもしんどくなり
教室もやめてしまいました。

そしてこの頃、Facebookを使い始め、
「起業」という言葉をよく目にするようになります。

「わたしも、これまで学んだ占いやヒーリングの知識で
自分の高額商品が作れるのでは」
なんて思ってしまったわたしは、
「魔の起業ループ」に陥ることになります。


いわゆる「起業コンサル」を何人かに依頼しました。

でも、コンサルを受ける中で、
「こんな自分にセッションなんてできるはずない」
と自信喪失してしまったり、
あるいは自分の幼い頃からの自己否定感がふきだして
心理カウンセリングのようになってしまったり。

結局、どのコンサルも中途半端で終わってしまいました。

そのころのわたしは、
娘との関係にもひどく悩んでいました。


障がいゆえとわかっていても
「なんでできないの!」
と娘のことを大声をあげて怒ってしまい、
それを夫に叱られる。

「このままでは親子ともダメになる」
と追い詰められていたころ、
アドラー心理学にもとづく子育て講座をしている先生と
偶然知り合いました。


「わたしも先生の講座で学びたいです」
と先生に懇願したところ、
「参加者が3名集まれば出張講座を開きますよ」
と言われて、わたしは初めて講座の「招致」に挑戦したのです。

Facebookや、
当時始めたばかりのメルマガで参加者を募りました。


わたしの
「ぜひこの講座を開きたい」
という熱意が伝わったのか、
最終的に6名もの参加者が集まり、
学びの熱意にあふれた講座になりました。

今ふりかえっても、
お互いに子育ての辛さを
深く語り合えたのは
とても貴重な時間でした。

ほんとうに救われました。


それと同時に、
この招致活動をする中で、
「わたし、こういう『主催』をするのが好きなんだ」
と自分の意外な才能に気づいたのです。


また当時、
インプロという即興劇に出会いました。

インプロとは、
なにかお題をもらって、
即興で何かを表現したり
シーンを演じたりするワークです。


ふだんの
「◯◯ちゃんのママ」「◯◯さんの奥さん」といった肩書に関係なく、
そのままの自分でいられる時間は、
これまで経験したことのない楽しさでした。


電車で2時間ほどかけて
東京で開かれるワークショップに何度も通いました。


そして、
「この楽しさを伝えたい!」
と、家の近所で、
自分でもインプロのワークショップに開くようになりました。


インプロは、
「失敗を楽しむ」ことをとても大切にします。

そのおかげか、この頃から、
ふだんの人間関係でも、
自分を出すのが楽になったように思います。


娘の障がいについても、
「この子にはこの子の幸せがある」
と思えるようになっていきました。


そして、子育て講座がおわったあとも、
さまざまな講師の先生を招致して
講座主催を続けました。


健康、スピリチュアル、哲学、風水など
多岐にわたる単発講座を始め、
当時現役だった小学校の先生が開くお母さん向けの連続講座や
陰陽五行の講師の先生の連続講座など、
大人の知的好奇心を満たす講座を毎月のように主催していました。


告知記事を書いて
集客したり当日のお客さま対応をしたりと、
とても忙しく活動していました。


その忙しさのおかげか、
当時は、夫との関係の悪さが
いい意味でどうでもよくなっていました。


しかし、主催で得られた収入はお小遣い程度。

「わたしは主催しているだけだから」
と、自分の報酬を得ることに非常に抵抗があったからです。


今思えば、「場を作る」ということの価値を、
わたしはぜんぜんわかってなかった。


「すごいのは講師の先生。自分は単なる裏方だ」
と、自分を過小評価していました。

これも、自分の劣等感ゆえでしょうね。


しだいにそのむくわれなさから、
主催の活動に疲弊するようになり、
「やはり、自分自身の商品がないとダメなのでは」
と、再度、魔の起業ループに突入。


夫との関係もまた悪くなっていきました。


そんな頃に、コロナ禍が始まりました。


長男はすでに大学の近くで
ひとり暮らししていましたが、
娘の高校、次男の中学校は休校、
夫もテレワークで週に何回かは在宅勤務。


それまで昼間は
わたしは一人でのびのびと翻訳の作業をしていたのに、
いきなり家族全員の世話に追われる日々が始まりました。


今ふりかえると、
もっと家族に頼ったり
外部のサービスを活用するなど
自分をラクにする方法を選べばよかったと思います。


でも、当時は、
コロナで先の見えない不安とともに、
夫に対するイライラもピークに達していました。


そんな中、娘が、
障がい者向けの職業訓練校に合格。

高校卒業後はその学校に通うことになりました。


しかし、自宅からその訓練校に通うには、
片道2時間近くかかります。


「家から通うのは大変だから、
学校の近くに子どもたちと住みます」
という理由をつけて、
わたしは、娘と次男を連れて、
夫を自宅に残して引っ越すことを決意しました。


一見、もっともらしい理由ではありますが、
本音のところは、
夫ととにかく距離をおきたかったのです。

夫はしぶしぶながらも
別居を了承してくれました。

子どもたちと住むことに決めたのは、
娘の通う職業訓練校からほど近い団地。


結婚した頃に住んでいた社宅と
どことなく似ていました。


そうして始まった
わたしと子どもたちとの暮らし。

最初のうち、わたしは、
「別居すれば、夫のありがたさを感じられるのでは」
と思っていました。

しかし、実際は、
ありがたみよりも、
夫のいない快適さのほうが何倍も大きかった。


別居を始めた最初のころ、
夫は、週末ごとにやってきていました。

でも、週末が近づくにつれて
わたしは心がどんよりし、
息をするのも重苦しくなっていきました。


そしてあるときとうとう夫に
「しばらく距離を起きたい」
と言ってしまったのです。


夫は「なんで?」と理解できない様子。

勇気を出して、
ふたりで話す時間を持ちました。

ときどき泣きそうになりながらも、
これまで溜め込んできた辛い気持ちを伝えましたが、
夫には青天の霹靂といった感じでした。


わたしが自分の気持を
彼に伝えてこなかったのも問題だったとは思いますが、
そもそも、夫とは
物事のとらえ方が根本的にちがっていた気がします。


わたしはいわゆる「カサンドラ症候群」の妻でした。

(カサンドラ妻:アスペルガー症候群などの
発達障害の夫と情緒的な相互関係が築けず、
心身の不調を訴える妻)


今後のことはまだ宙ぶらりんな状態ですが、
おそらく、夫とは別々の道を歩むようになるでしょう。

そしてわたしはこれからどう生きるか。

今は、ありがたいことに、
子どもたちの養育費という名目で
夫から十分な仕送りはもらっています。

そして翻訳の仕事
もありますが、
いずれも今後どうなるかわかりません。

翻訳は「AIに奪われる仕事」として、
いつも真っ先にあがりますしね(^_^;)


そして、
「今後も翻訳の仕事をやっていきたいか?」
と自分に問うと、
「うーん。。。もう十分やった気がする」
という答えが。


現在は、
生成AIを活用したライティングや
仮想通貨投資など
新しい世界に挑戦中です。


それにしても、まぁ、
とにかくたくさんの失敗をしたものです。


好奇心旺盛ですぐ飛びつく割に、
すぐ飽きて、そんな自分に落ち込んで、
引きこもって、かと思えばまたいきなりやる気を出して。


何かを手に入れてようやく安心、と思いきや、
自ら手放してしまう。

使ったお金を考えると気が遠くなります(^_^;)


それでも、
3人の子どもたちがいてくれたおかげで、
なんとかここまで
社会に属しながら生きてこられた気がします。


でも、わたしみたいに
生きるのに不器用な人も
世の中にはきっと存在するでしょう。


そんな人たちに
「大丈夫、あなたらしく生きていけるよ!」
と大きな声で伝えられるよう、
このnoteでいろんな発信をしていきたいです。


フォローしていただけたら幸いです。


いいなと思ったら応援しよう!

かよみん🎈Kindle作家⭐️フォロバ100
応援ありがとうございます!いただいたチップは、よりおもしろい記事を書けるよう活動費に使わせていただきます。

この記事が参加している募集