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書初めが嫌いな理由

こんにちは。窓辺です。

ふと、書初めのことを思い出したので書きます。

私は、書初めが嫌いでした。
理由は、私が左利きだから。

書道は右で筆を持たなきゃいけないので、まぁ書きにくい。

年末年始休暇の宿題の書初めは、年越しを母方の実家で過ごすこともあり、字の上手い伯母に指導してもらうのが恒例でした。

教育熱心な両親と、伯母に指導されて何枚も書かされましたが、本当に書道が嫌いで、内心ずっと「そう簡単に指導するけど、みなさん右利きですよね?こちとら左利きなんですよ」と悪態をついていました。

もちろん、普段使わない右手で筆を持つので字は下手です。しかも思うように動かせない。そんなんでうまく書けるわけじゃないのに、
「まぁこのへんでいいんじゃない?」というお許しは出なかった。

書初めの紙は枚数が限られているから、最初は普通サイズの紙で何枚も練習してから、本番の紙があるだけ書いて1枚書くたびに都度指導が入って、最後に3枚くらいから決める、みたいなことをやらされました。

本当に嫌いだった。

一回ブチ切れて、書き上げた作品に筆投げつけてダメにしたこともあります。(しかも、結構うまく書けていた作品だった記憶)

今思えば、どうして数枚書いてその中で一番マシなものを選んで終わり!にしてくれなかったんだろう。
私にとってはつらい時間が長く続くだけでした。

教育熱心なのはいいですけど、左利きが右手で筆を持てば褒められるような整った字が書けるわけないんだから、妥協してほしかった。
せめて、「うまく書かなくていいから自由に書いて」くらいにやらせてほしかったと思います。

あと、書初めで嫌いだったのは、提出した後に先生がクラスの中で金賞・銀賞・銅賞を決めることでした。
自分は絶対に選ばれない。利き手というハンデは大きくて、何があっても先生に選ばれることはありませんでした。
「がんばっても思うように動かない右手で苦労して書いて、その上別にうまくもないし賞も取れない、惨めな思いをするだけなんだから書初めなんかなくなればいいのに」と本気で思っていました。

今の教育がどのようであるかは知らないけれど、20年前はとにかく一律・統一って感じでみんな同じことをやって、うまくやった子は褒められるって感じだった気がします。

書道なら書道、美術なら美術、その時はそれに向かって必死に努力しなきゃいけない、劣ったら負け、賞がつかないやつはみんなダメ、みたいな。
(わからない、私の今の性格がゆがんでいるだけかも)

私は勉強・体育は平均、芸術は平均以下の子だったので、何も評価されず抜きん出ず、誰かが称されているのを横目で見ているだけでした。

「わたしとことりとすずと」の「みんなちがってみんないい」も耳障りのいい言葉ならべてるだけで、なんでもかんでも結局順位つけるじゃんって思ってました。

あのときに、誰か大人が「できなくてもいいよ」「できなくて嫌いなことに必死に努力しなくていいよ」「好きなことやったらいいよ」って一言言ってくれていたら、気持ちが楽になったのにな、と思います。
この教育のためか、できないことを必死に努力して平均ぐらいに持ってくる努力は覚えたけど、その代わりに好きなものが分からなくなりました。

今日は愚痴日記。
嫌なことを思い出すって、辛いし苦しいしあんまりよくないよね。吐き出して終わり。

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