ハプスブルク帝国 (1848-)

前史

ハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝を世襲し,「戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」の格言通り,婚姻政策によりハンガリー,スペインを手に入れた.ハプスブルク家がハンガリーを領有する理由となったのはモハーチの戦いでのハンガリー王ラヨシュ2世の戦死であり,それ以降ブダペストを含むハンガリーの広大な領域がオスマン帝国領となっていた.ハプスブルク領は2度のウィーン包囲を受けるなど,オスマン帝国から強い圧迫を受けていた.

1683年の第二次ウィーン包囲において,オスマン帝国はヤン3世ソヴィエスキ率いるポーランド=神聖ローマ帝国軍に敗退する.その後,ハンガリーでのオスマン帝国支配は後退し,1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーはオーストリアに割譲される.
しかし,ハプスブルク家はハンガリーを植民地同様に扱ったため,ラーコーツィ・フィレンツェ2世による反乱が勃発し,1707年にハンガリー議会はハプスブルク家を王位から排除した.反乱軍は不利な状況であったが,オーストリアもスペイン継承戦争で手一杯であり,サトマールの和約が結ばれたことにより,帝国内でハンガリーは高度な自治性を持つ独自の存在として存続することとなった.一方でボヘミアは神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世によるカトリックの強要に反発して30年戦争の起点となったが,1620年のヴァイセンブルクの戦いで大敗を喫し,ハプスブルク家に従属する立場となった.

1740年に即位したマリア・テレジアはコスモポリタン的な行政機構・官僚機構を設けた.ハンガリーに対してはハンガリーへの輸出品に重税を課すことなどによって,慎重に弱体化を図った.次ぐヨーゼフ2世は農奴制廃止,ドイツ語使用の強要,ハンガリー議会招集・ハンガリー王即位の拒否など急進的にハンガリーの権力を弱め,中央集権化を進めた.オーストリアでは農民は開放されたが,イギリスやドイツほどには土地を離れず,有力な石炭供給地を持たなかったため,産業化は遅々たるものとなった.都市に移った農民も十分な雇用がなく,生活は困窮し,不満が高まった.また,大貴族は土地に対する莫大な補償金によって資本家へと転換することができたが,小貴族は没落した.ヨーゼフ2世の後継者レオポルド2世はハンガリー議会を招集し,ハンガリーの特権を回復した.

その後,ナポレオンの征服戦争の結果,神聖ローマ帝国は消滅し,ハプスブルク領はオーストリア帝国となった.

1848年革命

1848年,フランスで二月革命によって七月王政が打倒されると,民族主義者でハンガリー独立を強硬に主張するコシュートは,貴族の免税特権の廃止などを主張した改革派のセーチェーニとの争いに勝利して12か条の原則に基づく4月法の制定に成功し,ハンガリーは独自の予算・軍隊・外交を持つに至った.このハンガリーの領域はマジャール人の少ないトランシルヴァニアやクロアチアも含んでおり,スロヴァキア人やセルビア人など他民族の民族主義を抑圧することで成立した.特にクロアチアはハンガリーと友好関係にあったが,マジャール語使用の強要・クロアチア廃止宣言などを受けて反対勢力に転じた.政府は4月法を承認しつつも,この動きを利用してクロアチア人のイェラチッチをクロアチア総督に任じ,ハンガリーとの対決姿勢を取った.

プラハでもハンガリーと同様の要求がなされ,4月8日には帝国からチェコ語とドイツ語の平等,プラハの責任政府の設立が約束された.民族主義者のパラツキーはオーストリア帝国を諸民族の連邦国家に転化することで,帝国の保護のもとでスラヴ民族が自由を享受できるというオーストリア・スラヴ主義を提唱した.しかし,帝国はスラヴ人が軍事力を拠出する場合にのみその権利を認めるが,軍事力を持ったスラヴ人は帝国の保護を求めず,自立を求めるだろうという根本的な矛盾を抱えていた.パラツキーはフランクフルト国民議会への参加を拒否し,6月にはプラハでスラヴ民族会議が開かれたが,これは帝国外のスラヴ人も含んでおり,オーストリア・スラヴ主義と汎スラヴ主義が混在していた.この会議で帝国への諸民族の要求が取りまとめられていたが,6月12日にプラハ市街で急進派の暴動が起きたことでヴィンディシュグレーツ将軍によりプラハは制圧され,会議も解散させられた.しかし,敗北したのは急進派であり,オーストリア・スラヴ主義を支持する穏健派はウィーンの立憲議会に参画した.

ロンバルディア・ヴェネツィアではメッテルニヒ辞任の報を受けて反乱が起こり,支援を求められたサルデーニャ王国はオーストリアに宣戦布告したものの,ラデツキー率いるオーストリア軍に敗北を喫し,全ての州はオーストリア支配に戻った.(第1次イタリア統一戦争)

ウィーンでは1848年3月13日,自由主義者として知られたヨハン大公などがメッテルニヒの辞任を要求したことで革命が始まり,メッテルニヒ体制は崩壊した.同時に革命は街頭に拡大した.4月25日にはベルギー王国憲法をモデルとして,親王・皇帝に任命された大臣・選挙で選ばれた大地主からなる元老院と,日雇い・週雇い労働者や使用人などを除く男性による選挙で選ばれる代議院の二院制議会を定めるピラーズドルフ憲法が制定された. しかし,選挙権に制限を課したピラーズドルフ憲法に急進派は満足せず,5月15日に元老院を廃し,男性普通選挙による一院制とする改正が行われた.この議会には反乱状態にあったハンガリー・ロンバルディア・ヴェネツィアからの議員は含まれなかった.身の危険を感じたハプスブルク家は5月17日インスブルックに逃れた.7月には立憲議会が開かれ,領主裁判権・賦役の廃止により農奴解放の完成を成し遂げたものの,領主裁判権の廃止は中央集権の強化にもつながった.

イェラチッチ率いるクロアチア軍はオーストリア軍とともにウィーンでハンガリーへの進撃を準備していたが,10月にハンガリーに共鳴して民族ドイツ・民族ハンガリーの独立を目指すウィーン蜂起が発生した.これによりウィーンに戻っていた王家はオロミュッツに,議会はクレムジールに逃れた.この事態にフェルディナント1世では対応できないと考えられ,フェルディナント1世に代わって,フランツ・ヨーゼフ1世が帝位に就いた.その後,両軍はこの鎮圧を鎮圧し,民族主義を敗北へ追い込んだ.クレムジールの議会に参加していたドイツ人やチェコ人はハンガリー問題の根本的な解決を避け,1849年3月に自由主義的な憲法を作成した.しかし,ハンガリー問題に対処しない議会は不要となったため,シュヴァルツェンベルク首相は議会を解散した.代わって中央集権的で民族に基づいて細かく分割された国家を志向するシュタディオン憲法を制定し,ハンガリーは分割され,特権を剥奪された.シュタディオン憲法では皇帝の権利が強調されると共に,帝国の独立性,不可分が宣言されており,これを受けてフランクフルト国民議会では大ドイツ的統一を断念して小ドイツ的統一を目指したが,皇帝に選ばれたフリードリヒ=ヴィルヘルム4世が戴冠を拒否したことで自由主義的なドイツ統一は挫折した.

新絶対主義

帝国はロシアから支援の申し入れを受け入れ,5月には共同でハンガリーを制圧し,コシュートは亡命した.ロシアの協力は弱体化したオスマン帝国を切り取り,近東で勢力を拡大することを目的としていた.このロシアとの協力はプロイセンに1850年のオロミュッツ協定締結を余儀なくさせ,小ドイツ主義に基づくドイツ統一を一時的に断念させた. 7月にはラデツキー将軍がサルデーニャ軍を撃破し,ロンバルディア・ヴェネツィアも回復された.危機を脱したフランツ・ヨーゼフ1世は1848年革命以前への回帰を望み,バッハ内相は報道の規制や民族主義者の弾圧といった反動政策を施行した.キューベックの助言を受けて1851年にはシュタディオン憲法を無効とするジルヴェスター勅令を発した.この勅令では報道の自由,裁判の公開性,議会制度が失われ,シュヴァルツェンベルク首相とバッハ内相が主導する新絶対主義が敷かれた.1855年には宗教協約を結び,ヨーゼフ2世が進めた国家による教会勢力の掌握から教会を解放し,教会の教育への支配権も復活させた.1852年にはシュヴァルツェンベルク首相が急死し,皇帝はバッハ内相を次の首相に任じようとしたが,首相と絶対君主は両立しないとのメッテルニヒの忠告を受け,首相は空席となった.

第二次イタリア独立戦争

1848年革命が挫折してからの新絶対主義はロシアとの同盟に支えられていたが,その関係は1853年に始まるクリミア戦争によって崩壊した.クリミア戦争にオーストリアは参戦しなかったにもかかわらず,ロシアの統治下にあったドナウ諸国を占領し,ロシアを怒らせた.これはオーストリアの国際的孤立を招いた.オーストリアの孤立はナポレオン3世に付け入る隙を与え,1859年に第二次イタリア独立戦争が発生した.オーストリア軍はフランス軍・サルデーニャ軍に対して不利な戦いを強いられ,ソルフェリーノの戦いで決定的な敗北を喫すると,コシュートがハンガリーの反乱を企てていたこともあり,ロンバルド=ヴェネト王国を割譲することで講話を結んだ.この敗北によってバッハ内相による反動体制は動揺した.

10月勅令と2月勅令

1860年,フランツ・ヨーゼフ1世は10月勅令を発した.10月勅令は帝国議会と州議会に立法権を与える連邦国家を描くものであった.その目的は立憲議会を要求するハンガリーに対処するため,各州に州議会を設けることで外見上ハンガリーの要求に沿いつつ,ハンガリーの特権的な地位を相対的に低下させることであった.ハンガリーはこれに激怒して受け入れを拒み,4月法の適用を主張した.一方でハンガリーの行政権はハンガリー議会が握っており,ドイツ人も10月勅令には不満を持っていた. これを受けて中央集権主義者シュメアリングが内相に就任し,1861年には2月勅令が発された.これにより帝国議会は二院制議会へと拡大されたが,出版の自由,議員の不可侵,司法の独立など自由主義的な権利は全く保証されておらず,徴兵権や徴税権,条例の発布権は皇帝が掌握していた.地方議会の権限は縮小され,帝国議会の選挙委員会程度のものになった.これによりハンガリー議会は他の州議会と同様に重要性を失った.一方で2月勅令では帝国議会にハンガリー以外の諸国の問題を取り扱う,ハンガリーの代議員が参加しない小セクションを設けることが定められており,後の二重帝国の輪郭を描いていた.州議会は帝国議会議員を選出する役割を担ったが,この選挙制度は富裕層と都市住民に有利に作られており,これは間接的に帝国議会のドイツ人支配を企図していた.このような帝国議会にハンガリーは議員を送らず,2月勅令の受け入れを拒絶した.この拒絶を予期して,2月勅令には州議会が代表を選出できない場合には有権者,すなわちマジャール人以外の諸民族が直接選挙を行えるとのマジャール人への脅迫とも取れる条文が含まれていた.この条文により,ハンガリーとオーストリアが交渉によって歩み寄る可能性は潰えてしまった.

以降のハンガリーはデアークとその側近アンドラーシを中心として,民族国家としてのハンガリーを維持しつつ,国内の少数民族と和解する方針を探っていく.彼らはハンガリーがハプスブルク帝国と協同しつつも帝国に抵抗してきたことで,独自の地位を築いてきたことを理解しており,帝国に徹底的に抵抗したコシュートや帝国に阿る旧保守派とは一線を画していた.彼はハプスブルク帝国とハンガリー内部の少数民族の両方と争ってハンガリーを維持することはできないと考えており,少数民族との和解を進めた.
チェコ人にとっても2月勅令によって10月勅令の連邦主義が覆されたことは痛手であった.ボヘミアのチェコ人代議員は1863年3月に帝国議会を脱退し,1年後にはモラヴィアのチェコ人議員もそれに続いた.この結果,帝国を中央集権国家としてドイツ統一を進めようとしたシュメアリングは1865年に失脚し,ベルクレディ内閣によって2月勅令は撤回された.

普墺戦争

ベルクレディはハンガリーと和解してプロイセンとの戦争に備えることを求められたが,戦争に勝ってハンガリーへの譲歩が不要になることを期待して調停を延期した.また,プロイセンへの対抗上必要なドイツ人の民族意識への訴えや,フランスやロシア,イタリアと手を結ぶ努力を行わなかった.結局,イタリアはプロイセンと軍事同盟を結ぶこととなった.1866年に普墺戦争が勃発すると,プロイセンの近代的な軍制,鉄道による迅速な動員,後装式小銃などの新兵器を前にオーストリア軍は劣勢に陥り,ケーニヒグレーツで大敗を喫した.オーストリア軍はドナウ川に防衛線を構築し,長期戦の準備を行ったが,プロイセン宰相ビスマルクはオーストリアを破壊することは望まず,講話交渉が進められた.結果,プラハの講和でオーストリアはヴェネツィアを失い,ドイツから排除されることとなった.ビスマルクはオーストリアの崩壊によって大ドイツ主義が進展し,ユンカーの支配が及ばなくなることを恐れていた.

オーストリア=ハンガリー二重帝国

この頃,オーストリアの存在は大ドイツ主義を望まない国内のスラヴ人たちに望まれ,大ドイツ国家を望まないフランスにも歓迎された.さらにはロシアと汎スラヴ主義の拡張を望まないイギリスにも必要とされていたのである.

ザクセン首相として普墺戦争でオーストリアに与して敗北したボイストがオーストリアの外相,次いで首相に就任した.ボイストはドイツ人とマジャール人に帝国内での発言権を与えることで国内の安定を図った.ハンガリーのアンドラーシと連携し,1867年にアウスグライヒが結ばれ,オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した.オーストリアとハンガリーは皇帝と宮廷,外務大臣,軍事大臣を共有し,関税同盟を締結していたが,内政面では2つの分離国家となった.実務においては,オーストリアとハンガリー両議会から選ばれた各代議員団が別個に協議し,共通大臣の要求に代議員団が同意した場合には必要な資金と兵士の分担を請け負った.

ボイストはプロイセンに対抗してフランスとの同盟を画策したが,イタリア王国に対する保護を目的に教皇領にフランス軍が駐屯しており,同盟によってイタリアからの攻撃を受ける可能性があった.また,アンドラーシ首相が率いるハンガリーも勝利しても敗北しても現在の体制を揺るがしうる戦争を望まなかった.結局,同盟は締結に至らず,1870年の普仏戦争でフランスはプロイセンに敗北する.1871年に成立したホーエンヴァルト内閣は,商相シェフレの主導でハンガリーと同様の権利をボヘミアに与え三重帝国へ転換することを図った.これを受けてモラヴィアとシレジア議会をボヘミア議会に合流させ,歴史的な聖ヴァーツラフ王冠領の統合を定めた基本法がボヘミア議会で採択された.しかし,この法案はモラヴィア,シレジアの同意が得られず,ドイツ人の反対も高まった.さらにハンガリー内部の汎スラヴ主義の高揚を恐れたアンドラーシも反対に回ったことでボヘミアとのアウスグライヒは破棄された.一方で三度のポーランド分割によってオーストリア領となった旧ポーランド領はプロイセン・オーストリア領と比較して高度な自治を認められていた.そのため,ポーランド人はドイツとロシアの脅威から逃れるため,皇帝を支持しハプスブルク帝国を温存することを望んだ.

二重帝国初代首相となったアンドラーシは現在の二重体制を安定させるため,1872年にロシア・ドイツと三帝同盟を締結した.1876年にオーストリアとロシアはライヒシュタット協定を結び,ロシアはベッサラビアとコーカサスを,オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを獲得する代わりにロシアとオスマン帝国の戦争に中立を維持することを約した.そして,1877年から始まった戦争でロシアはオスマン帝国に勝利し,1878年にサン=ステファノ条約を締結した.この条約でロシアは親ロシア的な大ブルガリアを独立させることでドナウ河口域を支配し,コンスタンティノープルへの足がかりにしようと試みた.しかし,ドナウ河の水運が重要であったオーストリアにとって,ドナウ河口域とダーダネルス・ボスフォラス海峡の支配を許すことはできず,ベルリン条約によってロシアの目論見は潰えた.これにより三帝同盟は崩壊し,1879年にロシアに対抗して独墺同盟が結ばれた.ボスニア・ヘルツェゴヴィナの獲得は国内のスラヴ人の影響を強めることに繋がるため,ハンガリー人の不興を買い,アンドラーシは辞任した.

ターフェ時代

1879年に保守的なターフェが首相となり,大土地所有者やポーランド人の支持を受けて「鉄の輪」と呼ばれる政治ブロックを形成した.ターフェは帝国議会をボイコットしていたチェコ人をチェコ語とドイツ語をボヘミアの対外言語として定めることで説得し,帝国議会に参加させた. 以後リーゲルを中心とする以前からの自由主義的政党である老チェコ党はターフェを支持し続けた.ターフェ内閣の外相カールノキは宥和的外交を行い,ヨーロッパでの同盟再編成を志した.ベルリン条約により崩壊したロシアとの関係改善を行い,1881年に独墺露を中立化する新たな三帝同盟の締結に成功した.また,ビスマルクと協力してイタリアと和解し,同盟に加えることに成功した.バルカン半島では,ブルガリア国家統一による影響力拡大を恐れ,1885年にはセルビアに支援を与えてブルガリアとの戦争に踏み切らせ,セルビアが敗北するとブルガリアに和平を強制した.この結果,ロシアはブルガリアでの影響力を失ったことで不満を高め,三帝同盟は再び崩壊した.

以前からのドイツ人自由派は大工業と関係する資本家の利益を代表する政党となり,ドイツ人からも支持されなくなっていた.代わって急進的なドイツ民族主義が台頭し,1882年にリンツ綱領が起草された.その中で彼らはドイツ帝国との同盟,他民族のハンガリーへの統合, 言語・文化でのドイツ化という大ドイツ主義を訴えた.チェコでも同様に老チェコ党が支持を失い,ボヘミアの統一を目指す急進的民族主義の青年チェコ党が勢力を増していた.そのため,帝国議会でドイツ人自由派と老チェコ党は手を結び,民族ごとに区分された行政制度を提案したが,ドイツ人もチェコ人もボヘミアの分裂を認めず,この法案は拒絶された.そして,老チェコ党は1891年の選挙で敗北し,勢力を失った.中間階級での急進的民族主義の高まりにより,各民族の制御が難しくなっていると感じたターフェ首相は普通選挙を実施し,保守的な大衆を政治参加させようとした.しかし,この法案は皇帝に却下され,1893年にターフェは罷免された.

バデーニの言語令と立憲政治の終焉

1895年にはポーランド人のバデーニが首相に就任した.この頃の帝国議会ではポーランド人や大土地所有者は現在の権利に固執し,チェコ人はボヘミア全体の統一を求めて議会のボイコットを繰り返した.そのため,議会は満足に機能しなかった.多くの産業は国有でその多くの役職を政府が任命したため,官職を巡って民族対立が激化することとなった.そして,基礎教育が行き届き,工業化が進展するに従って民族主義は大衆に拡散し,皇帝への忠誠は薄れることとなった.同時に伝統的な教権主義も衰退しつつあり,それに対してカール・ルエーガーによってキリスト教社会党が結成された.キリスト教社会党は農民や店主や職人などの小営業者を保護し,大領地や工場を牽制した.また,カトリックとして反ユダヤ主義とも結びついていた.結党当初には皇帝に警戒されたものの最終的には皇帝の新たな同盟者として認められた.また当時広がりつつあったマルクス主義は,ヴィクトル・アドラーを中心にオーストリア社会民主党に統一された.

カールノキに次いで外相に就任したゴウホフスキは1897年にロシアとバルカン半島の現状維持で合意し,協商を結ぶことに成功した.これにより近東でのロシアの脅威は遠ざかったものの,ロシアの脅威によって帝国を支持していた諸民族が帝国への反対を強めることにも繋がった.バデーニはチェコ人との融和を目的に,ボヘミアの役人にチェコ語とドイツ語両方の能力を義務化する言語令を同年に発布した.すべてのチェコ人がドイツ語教育を受けていた一方で,ボヘミアのドイツ人はチェコ語の教育を禁じられていた.これはボヘミアの官職がチェコ人に独占されることを意味しており,職を失うことを恐れたドイツ人の強い反発を招いた.特に過激な民族主義者シェーネラー率いるドイツ国民党は強い抗議を表明し,その結果,フランツ・ヨーゼフ1世は1897年にバデーニを罷免した.この後,フランツ・ヨーゼフ1世は議会の大臣を廃止し,各省の官僚をそのトップに据えることとし,首相にも官僚が任命されるようになった.フランツ・ヨーゼフ1世は1867年の12月憲法14条に置かれた皇帝の緊急令発布権によって統治を行うこととなり,オーストリアの立憲政治は終焉を迎えた.

二重帝国体制下でのハンガリー

二重帝国でのハンガリーハンガリーでは賦役の廃止やアメリカとの小麦輸出競争によってジェントリーは没落し,全土の1/3が大地主,マグナートに支配されることとなった.ジェントリーは1848年時点ではハプスブルク家の支配を良しとせず,大部分はコシュートを支持していたが,土地を失ったジェントリーは二重帝国を支えた巨大な官僚組織の一員となり,帝国と一体化した.

帝国内ではスラヴ人の民族主義が活性化した.1830年代のガイによるイリュリア運動を底流とする南スラヴ思想がローマ・カトリック司祭のシュトロスマイヤーによって提唱された.イリュリア運動は専ら共通言語の再発見を志向したのに対して南スラヴ思想では共通文化の創造が試みられた.自らの国家を持たないクロアチア人は純粋に南スラヴ人となったが,すでに独立セルビアを成立させていたセルビア人は南スラヴ思想を大セルビア実現の手段と見ており,クロアチア人とセルビア人の間で対立が生じた.また,ハンガリーはスラヴ人民族主義の伸長を抑えるために,クロアチアでセルビア人を優遇し,対立を煽った.その結果,クロアチア議会はセルビア人との対決を主張する権利党とさらに強硬な純粋権利党によって支配されることとなった.さらに,1904年にはステファン・ラディチによって農民を代表するクロアチア共和農民党が結成されたが,同党も民主的社会的綱領を掲げていたものの排他的な政党であった.南スラヴ思想にはスロヴェニア人も含まれていたが,スロヴェニア人は自らを南スラヴ人よりもチェコ人やロシア人に近いと考えていた.そして,スロヴェニアはクロアチアと異なり,オーストリアの支配下にあり,ハンガリー民族主義による圧迫を受けていなかった.また,ドイツやイタリアの脅威への対抗上,オーストリアを必要としていた.

ハンガリー政治危機

ハンガリーではバデーニの言語令による混乱の中で,共通軍隊への反対が活発化した.彼らは1903年にマジャール語を軍隊の命令語に加えなければ,共通軍隊への人員の拠出を拒否する決議を行った.そして1905年の選挙でフェレンツ・ティサ率いる自由党が初めて過半数を失った.これにより,オーストリアとハンガリーの対立が深刻化し,フランツ・ヨーゼフ1世はフェイェルヴァリ将軍を首相に任じ,1906年2月に議会を軍隊に占拠させ,憲法を停止した.しかし,その後すぐにフランツ・ヨーゼフ1世は方針を転換し,ハンガリーと和解することで帝国を強化しようと考え,大衆の政治参加によってマグナートの地位を脅かすことになる普通選挙の導入をちらつかせてマグナートを屈服させ,4月には共通軍隊への反対と関税同盟への反対を取り下げることを条件に再びハンガリーと妥協し,立憲政府を回復した.普通選挙はハンガリーでは導入されなかったが,オーストリアでは実施されることとなった.

セルビアとの対立

南スラヴ人の民族主義は非妥協的なものではなく,寛容な条件下でのハプスブルク君主制維持を望む者が多数を占めており,反発の対象はハンガリーによる苛烈なマジャール化であったにもかかわらず,皇帝はその弾圧から南スラヴ人を開放せず,ハンガリーと妥協することで良しとした.これにより帝国内の従属民族と和解する機会を逸することとなった.その上,共通軍隊の受け入れへの見返りとしてセルビアの主要輸出品である豚製品への禁止関税を導入したことで,セルビアとの経済的対立を引き起こした.それまでセルビアは帝国に対して経済的に従属する立場であったが,武器輸入先を帝国からフランスに切り替え,ドイツに市場を確保したことで,帝国からの経済的自立を得た.

ボスニア危機

1906年に就任した外相エーレンタールはオスマン帝国を保全しようとするのをやめ,ロシアと共同で行動し,バルカン半島での勢力を拡大しようとした.1908年にエーレンタールはロシア外相イズヴォリスキーと会談し,ロシアのダーダネルス・ボスフォラス海峡通航権を承認する代わりにボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合を黙認する密約を交わし,10月5日に併合宣言に踏み切った.これに対し,豚戦争で帝国と対立を深めつつあり,大セルビア主義の観点からアドリア海への出口として両州を求めていたセルビアは強い反発を示した.さらに悪いことに英仏がロシアの海峡通航権を承認せず,目標を達せされなかったロシアは汎スラヴ主義に立ち返り,セルビア人を擁護する立場に回った.帝国は以前から計画していた武力によるセルビア併合を実行に移そうとしたが,結局セルビア併合は強烈な不満を持つスラヴ人を国内に抱えることになることから,侵攻は断念され,エーレンタールは以前からのバルカン半島の現状維持路線に回帰した.侵攻が断念された後,帝国政府はクロアチア・セルビア連合の指導者をセルビアと内通したとして大逆罪で裁判にかけ,不十分な証拠で有罪とした.この裁判はセルビア人の信用を失わせるための不当な裁判であり,結果的に文明国としての帝国自身の評価を失墜させた.

ハンガリーでは保守的な政治家ティサが普通選挙の導入を拒否し,ハンガリーの独立に反対し続けた.その最大の政敵であったミハーイ・カーロイはハンガリーをマジャール人の主導する民族的に平等な連邦国家に転化することを主張した.チェコではマサリクがボヘミアの伝統的な国家としての権利が人工的なものであるとし,現実の民衆の意思に基づいてチェコ人とスロヴァキア人による共和制国家の建国を主張した.

バルカン戦争

ブルガリア・ギリシャ・セルビア・モンテネグロからなるバルカン同盟はロシアの後押しでオスマン帝国に挑戦した.バルカン半島の現状維持を望むオーストリアはこの戦争を阻止しようとしたが実力行使には出られず,オスマン帝国は決定的な敗北を喫した.その後の第二次バルカン戦争では,他のバルカン諸国に対抗するブルガリアを支援したもののブルガリアは敗北した.
バルカン戦争後,ドイツはセルビアとルーマニアとの提携を探り始めた.この政策をハンガリーを実際のマジャール人の範囲に縮小し,オーストリアがドイツ帝国に合流することに繋がるため,ハンガリーとハプスブルク家は再度結合した.

1914年のヨーロッパ諸国でオーストリア=ハンガリーはロシアとドイツに次ぐ人口を持っていたが,軍事費はロシアやドイツの1/4,イギリスやフランスの1/3でイタリアよりも少なかった.

フランツ・フェルディナンド暗殺

1914年6月28日,サラエボでフランツ・フェルディナンド大公が暗殺される.7月にはオーストリアはセルビアに最後通牒を発した.セルビアは留保付きでこれを受諾したが,オーストリアはこれを不十分として,7月28日セルビアに宣戦布告した.開戦を主張したベルヒトルト外相やコンラート参謀総長はセルビアの併合や分割を主張した.一方で,ティサは当初開戦に反対したが,ドイツとの同盟維持,戦時体制による国内問題の解決を考え,セルビア領を併合しないことを条件に開戦に合意した.

第一次世界大戦

戦時下ではハンガリーが小麦輸出を管理することで政治的立場の大幅な強化に成功し,ハプスブルク帝国の政治を主導した.オーストリア軍は緒戦でロシア軍を迎撃するが,大損害を被り撤退を余儀なくされる.以後のオーストリアはドイツに完全に依存して存在することとなった.オーストリアはルーマニアを引き入れることを考えたが,それにはトランシルヴァニアの割譲が必要であった.ハンガリー首相ティサは最初から交渉を拒否した.協商国はハプスブルク帝国の領土を約束することで味方を増やした.1915年のロンドン条約でイタリアには南ティロル・トリエステ・ダルマチア北部を,ルーマニアにはトランシルヴァニアの獲得が約束された.

協商国は当初ハプスブルク帝国との単独講和,大幅な縮小の上での存続を考えていた.アメリカのウィルソン大統領も同様であり,1917年4月にドイツに宣戦布告したが,オーストリアには12月まで宣戦布告は行わなかった.しかし,1918年にはハプスブルク帝国解体に情勢を移行させる事件が複数起きた.4月にはフランスのクレマンソー首相が秘密裏に行われていた皇帝カールとの単独講和交渉を暴露し,このクレマンソーの独断は英米を激怒させた.また,オーストリアは5月にドイツと軍事同盟を締結した.これはドイツに対するオーストリアの従属的立場を象徴する出来事であった.

ポーランド人はロシアとドイツの脅威から身を守るため,ハプスブルクの戦争に賛同した.ガリチアを含むポーランドが独立してハプスブルク帝国の3番目の構成物となる決議が考えられたが,ハンガリーはこの計画に反対した.ドイツも統一ポーランドが回廊を要求してドイツ領土の一体性が損なわれると考えて反対に回った.1917年にロシアとブレフト・リトフスク条約を締結した際にウクライナ国民共和国を食糧供給と引き換えに承認し,ポーランドの一部地域を割譲した.これによりポーランド人はハプスブルク帝国を見限った.

クロアチア人はハンガリーとイタリア,スロヴェニア人はドイツとイタリアに脅かされ,ハプスブルク帝国に頼った.一方,チェコ人は戦争勃発前には連邦主義を主張していたが,戦争の中でハプスブルク帝国の弱体化が明らかになると,独立国家を作ることを志向した.チェコ人はドイツ以外の国には脅かされていなかったため,ドイツの勝利による支配権の拡大を最も恐れていた.また,彼はハプスブルク体制と共に現在の大ハンガリーも崩壊すると考え,スロヴァキアを合わせてチェコスロヴァキアの創設を宣言した.チェコスロヴァキア軍団がロシアの支援で結成され,これは協商国にチェコスロヴァキアの立場をアピールするのに大きく貢献した.1918年夏には協商国はチェコスロヴァキア国民会議を政府として承認した.

セルビアはオーストリア軍の攻勢を退けるもドイツ軍の援軍に屈した政府首脳は亡命を余儀なくされた.1917年7月,亡命先で首相パシッチとダルマチアの南スラヴ指導者トゥルムビッチは会談し,カラジョルジェヴィッチ王朝のもとでセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人の王国を作ることで同意した.

1918年のドイツ軍の春季攻勢が頓挫し,敗戦が決定的になると10月にようやく連邦制が検討されたが,これは明らかに遅きに失していたし,この時点でもハンガリーの権利保証が示されていた.10月28日にはプラハでチェコスロヴァキア建国が宣言された.さらにハプスブルク帝国の崩壊により,クロアチア人・スロヴェニア人はイタリアから自身を守るため,セルビア主導による国家を受け入れた.ポーランドは協商国に転換し,ハプスブルク帝国の中で得た利益をすべて継承した.小ロシア人が多く住むガリチアもポーランド領となり,ドイツ敗北の結果として回廊部とポズナニも獲得した.

その後

WW1後にはチェコスロバキア,ユーゴスラヴィア,ポーランド,ルーマニアが成立したが,各国とも多くの民族を抱えており,民族問題を解決できたわけではなかった.

マサリクは,ロシアがヨーロッパについて一貫した方針を持っておらず,ロシアとの平和条約では安定した体制を築けないと考えた.国家の存立をロシアとの同盟に依拠することをよしとはしなかった彼はドイツとの関係を重視した.しかし,チェコにおけるドイツ人の存在はヒトラードイツによるチェコスロヴァキア占領の原因となり,戦後にチェコスロヴァキアはドイツ人を国外追放にした.

チェコスロヴァキアは戦時中のパルチザンの活躍によってスロヴェニア人の民族意識が高まった.共産主義によって一体性を維持していたが,冷戦が終結すると平和裏にチェコとスロヴァキアに分裂した.(ビロード離婚) ユーゴスラヴィアはチトーの指導で多様な民族がまとまっていたものの,死後には民族主義が復活し,悲惨な内戦を経て各民族国家に分裂することとなった.

参考文献

  • 『ハプスブルク帝国 1809-1918』
    ちくま学芸文庫
    A.J.P.テイラー 倉田稔 訳

  • 『ハプスブルク君主国19世紀原典史料I: 1849年「クレムジール憲法草案」「シュタディオーン(欽定)憲法」』
    『ハプスブルク君主国19世紀原典史料II:「暫定自治体法」(1849年)・「ジルヴェスター勅令」(1851年)』
    東欧史研究
    石田裕子・上村敏郎・堀潤・武藤真也子・森下嘉之

  • 『Austrian Constitution of 4 March 1849』
    https://www.hoelseth.com/royalty/austria/austrianconst18490304.html

  • 『オーストリア立憲主義の展開ー厳しい時代的潮流の中で(1848年-1934年)ー』
    關西大學法學論集
    奥 正嗣

  • 『Bohemian Land Diets and the Birth of Czech Parliamentarism』
    https://pspen.psp.cz/chamber-members/legal-framework/tradition-parliamentarism/

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