終わりはない、終わりはある
日々疲れている。就職や引越しをした時の高揚感はもう早くも薄れてきてしまっている。
今日は映画を観た帰りに新宿で小田急線に乗り継ぎしようとして迷子になってしまった。
今までは西武線だったから西武新宿駅に行けばいいだけで簡単だった。初めて小田急線沿線の民になって新宿駅をウロウロするという感覚は新鮮だった。
『きのう生まれたわけじゃない』を観て思ったのはどんなに歳をとっても、どんなに月日が経とうと人は悩みや迷いを捨て去ることなんて出来ないし、そういったこと全てに終わりなんてないんだということ。同じ今日はやってこないこと、人はいつか必ず死ぬということ。そして、それらにどう対峙するか、どう生きていくのかをそれぞれが考えて生きているし自分も考えていかないとということ。間違えてばかりだと思うけど、考えて行動はできていると思う。間違えているかもしれないけど。
映画館を出て喫茶店でパンフを読む。向かいのカップルも同じ映画を観ていたらしく映画について語っていた。そのまま新宿に移動してブラブラと散歩する。胸の中を寂しさが行き交う。
今の仕事を決めたとき、安心したいなと思った。ひとつひとつ人生の駒を進め、社会や人に受け入れられ、心配ごとを減らして穏やかに生きたいと願った。でも実際は仕事の悩みや忙しさに忙殺されて考えることや、何かを自分に問いかけるゆとりがなくなっただけだ。これが悩みを減らすことだったとすれば、自分の命に不誠実だなと感じた。
内在化された社会や他者に怯えているなと思う。自分の弱さに嫌になり、人間らしさに愛おしくなる。型に嵌めようとしても、自分にジャストフィットする型などないのかもしれない。
昨日の夜は同い年の役者の友達と町田で飲んだ。『不安になることはないの?』という問いに『まー不安になるっちゃなるけど、毎日楽しいからね。俺は楽天的だから』と言っていて羨ましいと思った。
自分は毎日が楽しいだろうか?わからない。楽しい瞬間はあっても今は日々憂鬱な気持ちに支配されている。常に苦しい。助けて欲しいと思っても、何を助けて欲しいのか説明できない。問題は根源的で漠然としている。いっそのこと生活や精神が決定的に破綻してしまえばって思うけど、自分の機器回避能力がそれを許さない。
ここ最近で決定的に変わったことといえば親を恨む気持ちがほぼ無くなったことだと思う。
自分はずっと実家が好きではないと思っていた。早く自立したいと思ってたし、だからこそ就職や生活に固執していたと思う。
その親を恨む気持ちが減り、今まで何でも何処かで親のせいにしていたことが出来なくなった。全部自分に跳ね返ってくる。でも、これは成長だと思う。これは親が高齢化したことや自分も歳を重ねたこと、そして家族に関する本をずっと読んできたこと、今年は実家に帰って親を買い物に連れて行ったり福祉の相談したり問題にささやかでも立ち向かったからだと思う。
ここに生きていくことのヒントがある気がした。苦しさや問題は避けて通りたい。でも、それに向き合うことによって本質的な問題を解決してくれるのではないかと思う。しかし、そういったことに立ち向かうには休息し、自分自身を労り回復させた先にあると思う。
決して腐らず、自己を労り他者との繋がりに希望を託す。なんとなく答えに急にたどりついてしまいそうな、そんな気がした。