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8月末、日記

8月の頭にコロナになったとき3日間は39度の熱が出てしんどかったけれど3日の夜ぐらいから熱は下がり続け、それ以降は熱はないけど怠さや頭痛、咳が残った。8月27日の現在は咳が残っているだけで怠さや味覚障害はなくなった。8月5日からコロナになりお盆中の楽しそうなイベントは全て参加できなかったのが残念だった。ロケハンや8ミリのイベントスタッフ、花火など。バイトも出来ず使えるお金も減ってしまった。熱は下がっても慢性的な身体の怠さでバイト(ウーバー)に出かけてもすぐにぐったりしてしまって家に戻ってしまう。仕方がないのでディズニーチャンネルを契約してずっと観たかった「マンダロリアン」を観ていた。ペドロパスカルが好きなので楽しんでみていたけれど、永遠に続くスターウォーズのフランチャイズには眩暈がする。後付けと思ってしまう設定もどうなのかなぁ…とか。ただ、マンダロリアンの中で描かれる混乱した銀河の中で強い規範や絆で結ばれるマンダロリアン達には心を動かされた。仲間の為に命を懸け、名誉のために生きる姿に感銘を受けてしまう…。コロナ以前まで、3.11以降の「仲間」や「絆」という言葉は自分にとって少し辟易する言葉だと思っていたけれど、コロナ禍のゆるい繋がりがバラバラになっていくような感覚は正直恐怖だった。家族、会社、国家。という強いトライブ的な繋がりを求める気持ちはわかる。でも、フィクションの世界で描かれるような自己犠牲も厭わない、そんな価値のある共同体などあるだろうか?自分が家族を持った場合はそれがその共同体になるのではと思う。強い共同体を求めながら、そんなものは何処にも存在しないという諦念もある。より深い絶望や危機感が訪れた時には、藁にも縋る思いでそういった共同体を探すかもしれない。

職業訓練(求職者支援訓練)もコロナの中で終わりを迎え、待期期間をちょうど終えた卒業式の日だけ参加したが体調が悪くその後の食事会には参加せず帰宅した。途中から気持ちが覚めてしまったとはいえ、ながらく就職活動をしていなくて自信がなかった身からすると書類の作り方から面接対策までやってもらえて、蹴ってしまったけど内定がもらえた企業もあって少し自信を取り戻すことが出来た。自分はあまりフォーカスが当たらない第二次氷河期世代と言われるリーマンショック後に就職活動をした世代だ。有効求人倍率はバブル崩壊後よりも低く、自分の周りの友達は就職できなくて就職浪人や海外留学をしたり、就職できてもブラック企業で大変な目にあった人がほとんどだった。その後、多くの友人たちは転職を繰り返しまともな企業に勤めてはいるが顔色は明るくない。あの時、自分も100社以上受けて受かったのは1社だけだった。支店長が机を蹴り飛ばしたり転勤しても引越し代が出なくて車内では違法園と呼ばれていたのはいい思い出で、自分は転勤先に恵まれてたったの3年間だけど楽しかった思い出も多い。

思えばずっと危機感を刺激されている気がする。リーマンショック、3.11、コロナ。増税や物価高で将来を明るく描ける人はどれだけいるのだろうか?職業訓練でも20代の女性が40代以降ぐらいの女性たちに囲まれて「まだ若いから大丈夫だよ~」と言われていたが「正直、全然希望とか持てないです」と言っていたのが印象的だった。希望とは何だろうか?自分は今までの感覚だと自己実現というのが大きかった気がする。それが最近はどう生きるかに変わってきていて「それは如何に生きるか?」ではなく、本当に無人島でサバイバルをしている時の「どうサバイブするか?」という所だ。

母親から連絡があって父を認知症の検査のために病院に連れていくということだったが、結局なんやかんや色々と言ってきて検査は受けない感じになってしまった。確かに高齢の母が病気の父をバスで既に3つの病院に通っているのに認知症の検査が出来る新たな病院い通うのは億劫なのはわかる。うちの実家は本当に街と街の間にある山の上のバブル期に作られた新興団地で、何もない。両親が買う時は「ここに大きな道が出来る」とかどんどん発展するようなことを言われたらしいが、その後バブルは崩壊し当たり前のように道も出来ないし店も潰れた。バスは1時間に1本だけ。17時には終わる。今の人の感覚なら買わない土地だと思う。この山は関越自動車道の上越線建設のために土砂を取るために削られた山らしく、その禿山に団地を造ったらしい。昔、小さい時に父と一緒に完成した高速道路の上を歩くイベントに参加したのが懐かしい。本当に不便な団地だと思う。隣は自衛隊の基地で、一番近い店はビッグモーターしかない。
結局母は不摂生で病気になった(であろう)父の為にこれ以上苦労したくないという思いもあるみたいで、一緒にいてイライラすると言っていた。俺もそう思うけど、このままにしておく訳にもいかないから悩ましい。ハッキリ言ってめんどくさいから放っておきたいけど、より面倒なことになるからどうにか対処しないといけない。結婚とはなんだろうか。恋愛も結婚も行きつく先がこれならば本当に良いものなのか疑問に思う。ただ、働くことも子育てもしんどいのは確かだと思う。それらを支える共同体も社会の柔軟性も前よりも弱くなっているのではないだろうか。それに代わる人との繋がりや関わり方を模索するしかなく、現代の人たちの課題だったりしないのだろうか。

何日か前に兼ねてから行きたかったレンタカーを借りてドライブへ行くというイベントを決行できた。村上さんと辻さんと中野からレンタカーでお台場へ行きビーチで写真を撮ってたこ焼きストリートと昭和の街みたいな場所でご飯を食べる。そして、川崎の工業地帯に行って猫や釣りをする人たちの間で写真を撮った。中野に車を返しNさんと合流。「ちょっと一杯」のつもりで結局朝まで飲んでいた。終わり際、男女についての話になる。アプローチや恋愛、同意についての話などだったけど、気になるトピックだ。自分はシスでヘテロで、恋愛はうまくいかない方だ。昔そんな自分の救いになっていたのは童貞カルチャーで、それらが指し示す答えは勇気を出して人と関わるということだった。それが、間違えると「強引さ」になってしまう。昔は間違えてしまっても恐れずに相手に踏み込もう。ということだったけど(決して無理やり肉体的接触をすることではない)例えばアプローチすることや告白するという非接触型の行為ですら相手を傷つけている可能性があるのではと最近思うようになった。もし、そうなのであれば、実は人が嫌がっていたことを知ってしまえばそれはしたくないと普通の人は思うと思う。他者と関わるのは難しい。相手を傷つけるかも、自分が傷つくかも。ということがグルグル回る。都合がよいかもしれないけれど、誰も傷つけたくないし傷つきたくない。でも、生きて人と関わる以上、そんなことは無理だ。傷つける意思がなく傷つけてしまった場合は、どうしたらいいのだろうか?そして、傷ついて、その傷を治す方法とは?

「バービー」を観てきた。自分は正直最初から最後までのれなかった。まずバービーのキラキラした世界が受け付けなくて、それが途中のバービーが死について考えるところから一気に興味を惹かれるんだけど、それが持続しなかった。まずあの世界のルールというか法則みたいなのがわからなかった。人間社会とバービーの世界が繋がっていたり、バービーの世界は人間社会の鏡になっていて、女性優位の世界で男性は冷遇されている。人間社会ではその逆で一見女性の味方のようでその裏では金儲けをしている男たちがいる。でも、バービーの世界は単純化してよいと思うけど、人間社会はもっと複雑に描いたほうが良かったのではないだろうか?男が中心でそこを軸に回っているのはわかるけれど、そのマッチョイズムの世界って男性の全てだろうか?むしろ、男性の社会の中でもそのカーストの上位の人たちが牛耳っていて、それが男らしい世界を形成ていると思う。バービーの世界がケン達に牛耳られた後にバービーがその世界を奪還しようとするけれど、その際に都合よく手伝ってくれる中世的なアランは終始ケアする役割に回っているけれどそこは良いのだろうか?そして、ケンと和解した後も判事になりたいというケンにバービーは微妙なリアクションをする。結局はケン達は前よりも少し良くなっただけで、平等にはなっていないと思った。そして、最も悪であろうスーツ姿の重役たちに何のお咎めもないのは何故だろうか?あの世界で問題の中心にいるのはマッチョでありながら女性性を金儲けに利用している彼らではないだろうか?なよなよしていたアランはケアに徹し、ナヨナヨしていて冷遇されていたケンたちはまた都合よく元に戻る。女性の行き辛さや男性中心の世界への訴えは単純化されすぎていて、あまりスッと自分には浸透しなかったけれど、これは自分が男性だからだろうか?映画はシンプルに整理された中に社会の矛盾や理不尽を描くことが出来ると思うけれど、バービーは後半に至っては全部言葉で説明していて、問題の核心がわかりづらかったと思う。最後、バービーが産婦人科に行って終わるのもよくわからなかった。途中でバービーが人間社会へ行ったときに男どもから性的なからかいを受けて「つるつるだ」みたいなことを言う。それが、ラストに産婦人科に行くということはそうじゃなくなったということだろうか?その意味は人間になったということなのだろうか?なぜ人間になったのか。人間になる意味はなんだったのだろうか。


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