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咲かざる者たちよ(第二十話)


 肌寒い朝、カーテンの隙間からのぞく曇り空、喉奥の吐き気も、今の喜多山にはどれもが輝く宝石のようだった。
 その日喜多山は朝目が覚めても布団から動くことなく、夕日を浴びて光る眞島の笑顔を何度も思い出していた。喜多山の目線の天井は、眞島の姿を映し出すスクリーンとなっていた。ほどなくしていつものように、外の空気を吸いに屋上へ向かった。屋上へと続く非常階段で、空を覆う分厚い雲を見た瞬間、軽い目眩が喜多山を襲い、ゆらりと身体がよろけた。手すりにしがみつき、その場にしゃがみこんだ。喜多山は昨晩の寝不足が響いているのだと言い聞かせていた。
 屋上から見下ろす街並みは、昨日までの喜多山と眞島との甘美なひとときを知らないかのように、いつもと変わらぬ姿で広がっていた。遠くから響く電車の音が耳に届くたび、駅のベンチから立ち上がり、歩き出して人混みの中へと消えていく眞島の後ろ姿が目に浮かんだ。この街を抜けて続く線路の先には、眞島が住む街が広がっている。今、曇り空に向かって視線を伸ばすと、その先にぼんやりと眞島の存在が感じられた。しかしその日は、灰色の空は何も語らず、ただ重量を感じさせるだけであった。雲の彼方には、まるで銀灰色の重いギロチンが、無実の首を狙うかのように、今にも落ちて来そうな不吉な影が潜んでいた。


 喜多山は部屋に飾る花瓶の水を替える際に、リンドウに顔を寄せてじっくり観察した。もうすっかり花弁は落ち着いた藍色に染まっていた。しかし、それには開花する気配はなく静かに蕾のままでいた。活性剤を水に数滴注すと、窓際に花瓶を置いた。透明の花瓶の中の水は澄んでおり、それを通して見る鬱陶しい十一月の曇天は、一層悪意を帯びて見えた。
 喜多山は手帳に、まだページが多く残っていることを確認し、ペンを胸ポケットにさして部屋へと戻った。

 雨の予報があったものの、空はまだ晴れ渡っていた。見上げたその空が、眞島への言葉にできない思いのように感じられた。そんな自分を抱え、喜多山は商店街のアーケードに急いで足を進めた。
 多く店が立ち並ぶ商店街の一角に古着屋があった。喜多山は古着屋の中の薄いセーターに手を伸ばし、サイズを確認したり身にまとってみたりした。服を選びながら喜多山は今日の眞島の着ている服を想像した。夕方に眞島との待ち合わせを控えた喜多山は、彼女と色を合わせた服で共に歩く姿を心に描いた。喜多山は茶色のコーデュロイの服を買い、店を後にした。
 烏賊焼き屋の前を通ると、いつものように老店主が瞼を垂れ、額にしわを寄せながら煙に目を細めていた。喜多山は気づいていないふりをして、ゆっくりと前を通り過ぎようとすると、「あんちゃん、これ、また仏壇に供えといてくれ。」と店主はぶっきらぼうに言い、喜多山を引き止めた。さらに「ほれ、あんちゃんにもやるよ。」と、老店主は言って喜多山にもう一本渡した。

 喜多山は烏賊焼きを手に持ちながら、かつて祖母の家があった場所へと向かった。今ではそこは空き地となり、膝丈の雑草が茂り、懐かしい家の面影は消え去っていた。彼は記憶を頼りに玄関があった場所を探し出し、静かに腰を下ろした。雑草の青臭さが漂い、小さな虫たちが飛び交っていた。喜多山は一本の烏賊焼きを口にくわえ、もう一本を地面にそっと突き立てた。
「おばあちゃん、今、部屋にリンドウを飾っているんだ…。」と独り言を呟きながら、虫が舞う雑草の中に身を沈めた。まるで、かつて狂った祖父が寝静まった後にリビングで二人きりで話すように、にこりと温かく微笑みながら喋り始めた。すぐに虚しさが込み上げたが、喜多山は続けた。
「昔よくおばあちゃんと一緒に行った花屋に行ってね。綺麗で優しい人に会ったんだ。」と眞島について話そうとした瞬間突如、祖母の手を引いて一緒に歩いた日々を思い出し、思考にブレーキが掛かった。
「眞島さん…て人…で…」
 気がつけば頬に大粒の涙が伝っていた。

「おばあ…ちゃんと…行った時は…いたっけ…?あんな…綺麗な人…」
 そこに祖母の姿を思い浮かべて涙を流しながら笑顔で語りかけた。

「おばあ…ちゃん…。おばあちゃん…。」
 嗚咽が喜多山を包む静寂に響く。

「僕…今日…も……眞島さん…に会うんだ…。」
 喜多山はその場に崩れ落ち、額を地に押し付けながら、声を上げて泣いた。嗚咽に合わせて顔を撫でるこの場所の雑草も愛おしく、哀しく感じた。

「おばあちゃん…会いたい…よ…。おばあ…」
 喜多山の右手は自然に雑草を強く握りしめ、青臭さが一層立ち込めた。


 夕方になり、喜多山は自宅で、昼に商店街で買ったコーデュロイの服に着替えた。待ち合わせまでまだ時間があったが、ゆっくりと石段へと向かった。
 手帳を開き、眞島との記憶をなぞった。そこには、たった二十分の間の出来事とは思えないほど、細部にわたり喫茶店での眞島との会話が記されていた。しかし今日はそこを飛ばしてパラパラとページを前の方へと送り、祖母と過ごした日々について書かれたページを見ると、喜多山は寂しさと懐かしさの感情に心が包まれた。自分が腰掛けた石段の横に目を向け、かつて隣に座っていた背を丸めた小さな祖母を思い描きながら、石のざらざらした表面を眺めた。
 すると突然、隣に誰かが静かに腰掛けた。清らかな花の香りがふわりと漂ったその瞬間、喜多山はすぐにその人物が誰かを悟った。
「お待たせしました喜多山さん。」と眞島の顔が喜多山の視界を独占した。紺のベルベットのジャケットに編まれた髪が片側の肩から胸に垂れ下がっていた。
「さぁ、行きましょう。」と動く唇を見た喜多山は、軽く返事しゆっくり立ち上がった。
 前に立つ眞島が、自身を孤独の淵から引き上げたのだと喜多山は改めて感じた。喜多山はそう思うと眞島の存在がより愛おしく感じ、指にそっと触れた。すると驚いた眞島は咄嗟に手を引っ込めた。しかし喜多山の顔を見るとすぐに、眞島から指を絡めて手を握って引いて歩いた。喜多山はそのまま歩きながら、まだ不自然に絡み合う指から少し力を抜いてまるで歯車のようにしっかりと噛み合うように眞島の手を握った。二人はお互いの顔を見ることなく前を向いていた。
 喜多山は後ろを振り返ると、背中に石段が遠くなっていた。そこに祖母の姿を思い浮かべて歩いていると、眞島はそれに気がつき、「どうかされましたか?」と聞いた。「…あ、いえ。」と喜多山は眞島を見て、前を向きなおそうとした瞬間、最後にもう一度石段を見た。こちらを見て微笑みながら静かに頷く祖母の姿を見た気がした。



 喫茶店を後にした喜多山と眞島は、駅前のベンチに腰を下ろし、電車の到着を待っていた。外に出ると、気温がいくらか下がっており、二人は自然に身を寄せ合い、強く手を握りしめ合っていた。
 時間になると、去り際、眞島はまだ手を握ったまま、喜多山に新たな手紙を手渡した。そして二人は離れ際に袖から手首へ、掌を経て、最後は指先まで大切に手を滑らせた。喜多山は眞島の柔らかいベルベットの袖の肌触りを、心の奥底に刻み込んだ。

 二人は無言のまま別れを告げた。喜多山は去りゆく眞島に熱い視線を送り続けた。眞島はその日、一度も振り返ることなく駅の人ごみに姿を溶かしていった。
 二人は愛し合っていた。

 電車がゆっくりと音を立てて出発し、駅はその後深い静寂に包まれた。喜多山はしばらくそこで立っていた。そして、手紙を思い出し、すぐに広げた。これまでとは違い、前段の社交的な感謝の言葉などはなく、ただ眞島の気持ちがこもった一文が書かれていた。

『あなたを愛しています。明日水曜日は花屋が休みですので、朝からお会いできませんか?あの石段で、明日の朝早くからわたしは喜多山さんを待っています。』

 手紙に雨滴が落ちると、喜多山は空を見上げた。すると、空に信じられないほど濃紺の厚い雲が街に雨を運んできた。
まだ眞島の温もりが腕に残っている中、急ぎ足で自宅に戻り、リンドウの花瓶に手を伸ばした。まだ咲く様子の見せぬリンドウを見て、喜多山はこのまま開花せずに蕾のまま時が止まってほしいと願った。更には自分自身も止まる時の中、このまま眞島と共に生き続けたいと願った。もうそこには、リンドウを咲かせた後に自死を決意していたかつての喜多山はいなかった。
 喜多山はリンドウの花瓶を持って玄関へ向かった。
「(きっと眞島さんなら、『たまには外の空気も吸わせてあげると、リンドウさんは喜ぶと思いますよ。』と言うだろう。)」と思い、屋上を目指した。明日の眞島との約束を思い出し、跳ねるような気持ちで非常階段に一歩足を乗せた瞬間、抑えきれない目眩に襲われ、喜多山の視界は闇に包まれ、響く音と共に倒れ込んだ。
 倒れゆくさなか、再び、薄暗い雲の上に巨大なギロチンを見た気がした。銀錆色のギロチンの刃を固定していたロープはぶった斬られ、喜多山の首元を目掛け、一直線に落下しようとしていた。

 それは錆による不気味な音をあげながら描く、美しい垂直落下だった。

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