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#9 Ice Brake #3;”先生”どこにいますか?

遠隔授業での、場を和ませるIceBrakeを目指したこのシリーズ。引き出し#3 (先生)

【だれ?】先に生れた人? 日本語で一般に「○○先生」と呼ぶ場面は、(1)学校で授業を教えている、(2)国家資格を持ち困ったときにお世話になる人(医師、弁護士)、(3)尊敬されているであろう人(例:政治家、小説家など)、(3)呼ばれて喜ぶであろう人(たくさん?)だと思う。

 ここでは、”先生”を「自分の生き方に影響を及ぼす人」と定義して以下の文章を書くことを宣誓すると止揚(しよう)。

【自動車学校?】単に技能だけを習い覚えるのであれば、そこは”教習所”と呼ぶべきだと思う。もしそこで、これからの生き方のお手本(role model)、あるいは、”負”のお手本(”反面教師”)に出会うことができるなら、そこには”先生”がいると言える気がする。ほとんどの人と同様、私が通った自動車教習所には、”先生”はいなかった。

【地蔵盆】今はもうなくなってしまった風習だけれど、子供のころ私の地元では夏になると地蔵堂の前に提灯をともし、地域のみんなが集まりワイワイ・ガヤガヤしていた。それまで会ったことない友達のうちのお爺さん・お婆さんも来て、地域の昔話を語ってくれた。”地獄の絵”がこの日はお堂にかけられ、小さな子供たちは赤や青の怖い鬼に舌を抜かれないように「嘘はつきませーん。」と半分鳴き声で答えた。怖いながらも集まるのは、子どもに配られるお菓子を楽しみにしていたからだった。大人になった今でも、ときどき京都のお寺に行ったとき雰囲気の似た掛け軸を見ると、あのお年寄り”先生”たちの声が蘇る。

【先生になるのは?】私が思う”先生”は、「先に生れた人」ではなく、「先の人生に影響を及ぼす人」である。年齢が自分より年下でも”先生”になり得る。自分にとって”先生”でも、友達にとっては”教員”でしかないこともある。逆も同様。(vice versa)

 この心の働きは、洞窟の壁に映った影を見てどう感じるかと根本は同じだと思う。これは「知を愛する」ことにつながるのでは?西周さんによれば「知者」になることに他ならないだろう。(うーん、難しくなってきたので、今日はこのあたりで。)

次回は、もう一つの「お水ください」エピソード。

(写真は、東京 上野にある国立国会図書館の支部図書館「国際子ども図書館」。1906年に建築、2002年安藤忠雄・日建設計により改修。)