#209 眼鏡は単数?複数?
外国語を勉強して,日本語とは違うなぁーと思うことが度々あります.違う言葉を話す人々の間で、それぞれの文化が何に気を配っているのかで,単語がカバーする概念の広さや、その文法が異なっていると思えてきて面白いです。外国語を学ぶのは、いつも使い慣れた日本語を改めて見つめなおすきっかけになると思えて興味がつきません.
日本語は,単数・複数をあまり気にしない?
英語だと,数えれれる名詞(可算名詞, countable)と数えれない名詞(不可算名詞, uncountable)の区別があり,辞書を引いたときに”C”(可算)や”U”(不加算)と記載があり,中には”U”と”C”が両方あるものもあり文脈でそれらが使い分けられていたりして、面倒くさいなぁーと習い始めた頃に思ったものです.
一方,日本語ではこの区別ありましたっけ? そもそも、日本語の文法?話始める前にどうやって習ったか? どんな風に日本語を生まれて初めて勉強したかを、当の本人は全く覚えていません.おそらく赤ん坊の頃から言葉らしいものを話し始めてから,毎日繰り返し事例集をひたすら繰り返し覚えこんだことでしょう。孤立した単文というよりも、会話分の一連のかたまり,使う場面とセットで覚えこんで,微妙な使い分けなどは理屈抜きに使い分けている気がしています.たぶん日本語では,「この名詞は可算名詞か不可算名詞か?」などと使い分ける場面がないと思います。しかし日本語でも数えないわけではなく,例えば,「一枚の紙」と言ったりします.英語なら”a sheet of paper”に相当します.
遠眼鏡,単眼鏡,眼鏡?
メガネは英語で,glasses(ガラスの複数形)と授業で習い,不思議に思いました.「眼鏡を一つ買いました」を英語で言うと,「I bought a pair of glasses.」になると思います.("a pair of" はなくても良いかな?) (なんでだろう??) 誰もが不思議に思ったと思います.学校では,説明が簡単なことはいろいろ教えてくれますが,なぜだがよくわからないことは授業では一般に教えてくれません.
自分なりに眼鏡が日本語で複数形にならない理由を想像するに,日本にメガネが輸入されたときには,二枚のガラスとフレームから構成される視力矯正器具としてのメガネは,一式で機能を満たすものとして名前を付けたのだと思います.たぶん,庶民がその存在を知るようになり始めたのは,江戸の終わり頃でしょうか?海外のように,中世にガラスから反射鏡,凸レンズを作り,遠眼鏡(とおめがね,望遠鏡)を作ったり,片目にだけはめる単眼鏡が身近に輸入される前に,庶民には先に二枚のガラスレンズからなるメガネが目の前に来たのだと推察します.眼にかけるはずのガラスを,「鏡」の文字を使っているあたりに,ガラス≒鏡という気持ちがあったと思います.「眼鏡」≒「眼ガラスレンズ」である視力矯正器具の機能として,たぶん日本語は単数形になったのでは???(素人の推測です.)
ズボンは複数形?
メガネと同様にズボン(trousers)も,英語では複数形ですね.そんなもんかと思って覚えましたが,なぜかは授業で教えてもらえませんでした.勝手に想像するに,日本の伝統的な着物(きもの)は,一般に反物(たんもの)から布地を裁断して,袖や襟元などの多少の部分は縫い合わせるとしても,基本はワンピース(一つの生地)が主流だったからではないでしょうか?庶民が羽織や袴を一般には着ていなかったでしょうから,古代ローマ人が着ていた一枚布のトーガのように,単数形しかなかったのだと思います.
一方,洋裁のように体のラインに合わせて曲線で裁断した布地を縫い合わせる洋裁では,生地が複数あるのでそこから複数形になったのでは?(素人の推測とは,しょせんこの程度のものですが,自分なりに納得がいくと,イタリア語のズボンや眼鏡が複数形と言われると,そりゃイタリアはギリシャと並んで,ヨーロッパの文化の故郷だからそうだろうなぁーと独り納得がいきます.ガリレオが望遠鏡を使って土星を眺めていたのだから,眼鏡はレンズ二つで複数形だろうなぁーと,これまた納得がいきます.)
靴の一足は? 片足?両足??
"a pair of shoes" と言われれば,「一組の靴」と訳しても良いのでしょうが,たぶん「一足の靴」と訳すのではないでしょうか?その方が日常会話に近い気がします.でも?でも?? 靴下,靴,両足分があって初めて機能を果たします.片足だけ靴を履いて外に行ったら,悲劇が待っているでしょう.「両足の靴」と言わずに「一足の靴」となるのは,”一足飛び”には理解ができません(笑).靴でなくて足袋でも同様なので,決して洋装になってからと言う訳ではないと思います.
”知識”と”思い出”
「なぜなら,○○だから.」と言い切れないこれらの単数・複数のお話,やはり学校の授業時間中に先生が教えるのは難しいのでしょうね.こんな”寄り道”ばかりを話していたら,大切な要点がぼやけてしまい覚えて欲しいことが伝わらない気がします.(でも習っている側としては,雑談と呼ばれるこうした”寄り道”の方が面白くて,大人になってもそちらの方ばかりを覚えていたりするのだけど,,,,.私がそうです.覚えているのは,先生が教室で話していた雑談だけです.覚えるべき知識は,”知識”として記憶はされてはいます.ただし,”思い出”は雑談(寄り道)ばかりです.)
教員になった自分
雑談のない授業は味気がないけれど,雑談だらけの授業は困りもの.その塩梅が難しいと実感しています.これを毎日考えながら、理系専門科目の授業をしています.予め用意した磨き抜かれた”寄り道”を用意して,さて明日も二コマ授業があります.知識と”周辺知識”を用意して、また新しい一週間が始まります。